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愚人正機

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ふるさと 高田獄舎

ふるさと〈画像〉
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菅原慎矢  

 前作に引き続き、一般的な俳句表現を逸脱するような言語密度の濃い句が並ぶ。一見、本来的な意味から乖離した言葉やモノが相互に衝突するところに美を見いだす、シュールレアリズム的な作品なのかと思わせる。しかし高田はあくまでも意味にこだわる作家である。初読時の印象をいったん保留して注意深く再読すれば、ほとんどの作品において、複雑に絡み合う語群はいくつかのテーマを表すためのメタファーであることが分かる。従って、句において表現されているものを把握し、さらにそのメタファーの切れ味を鑑賞することが、彼の俳句を読み解く際には必要とされる手順である。
 今回も、彼が継続的に追求している「都会の若者の絶望」が中心的なテーマである。文節を微妙に外して改行されているトイレ標語「いつもきれいにお使いいただ
き、ありがとうございます」にうかがえるざらつきは、句の中ではより悪意ある感触を残す。

嘔吐後の晩鐘双頭の豚の市の始まり

 助詞は「の」で統一し、前半部では長音を連続させていて妙に読みやすい。しかし、資本主義活動をフリークショーと侮蔑しつつも、準備不足の状態でそこに参画せざるを得ない若者の境遇を描き、まったく救いがない。この景色はメタファーではあるが空想ではない。こうした絶望を、同世代における日常として捉え表現するのが高田の俳句行為なのである。
 既存作品に頻出する単語「ビル」「俺」などの出番は抑えられており、自己模倣を避けようという姿勢がうかがえる。同様に、かつて散見された不用意な固有名詞の使用も回避されている。今回固有名詞を使用しているのは下記二句である。

電球換え厠に確かなミッキーマウスの呼吸
語の重犯とGショックは見逃し酔の遵守

 上句は資本主義を象徴するようなキャラクターが不潔な生物であるという矛盾を描く。この鼠は生臭く気味の悪い呼吸をしているだろう。下句は濁音の連続使用によるダダ的言葉遊びが主眼であると私は解釈したが、Gショックというポップな物体が挟まることで軽みが強調されている。どちらの固有名詞もともに動かない。こうした姿勢において、「Fukushima」と入れておけば社会詠であるとうそぶくような「前衛」俳人とは、高田は明確に距離を置いている。
 また、どうやら都会ではない描写も散見され、これが彼にとっての「ふるさと」であるのかと考えさせられる(個人的には彼をまったく知らないのでただの想像である)。しかしながら、この「ふるさと」もあまり都会と変わらず、希望のない描写をされている。

地神現れ短針動かし膿の一夜
暑い寒村毒蛇ひからび家具産まれ

 一方で、連作からは浮いているようにも思うが、冒頭三句の栗鼠・鷹・蛾に始まる詩語poetic diction的な単語が今回は散見された。元来有季定型でも書ける(んじゃないかな知らないけど)詩的デッサン力のある作家なのである。特に印象に残ったのは次の句である。

錐のように美詩人踊り階下の海亀

 私は「海亀」を生命力の象徴としてポジティブに解釈した。上階=芸術と階下=大衆のどちらにも価値を認め、さらにその境界を突破しようとする錐のメタファーを配することによって、ポリフォニー的な構造を持った美しい都会風景を描いている。大量の情報を一句内に詰め込む技術が発揮された、彼にしか書き得ない作品である。実景をもとにしているのだろうか。このような詩的風景が彼の理想なのかと思わせる。

「都市」にも「ふるさと」にも救いを見いださない高田の作品において、牢獄としての都会と対比される形で頻出する自由の象徴は「海」である。

億、兆いや零が音波の反芻海岸
パチンコ屋を忌み幻の鳩は海中に巣

 今作の終盤では、語り手がついに海を目指しはじめる。

大河へ駆けだし南瓜らは腐ずむしろ孕む

 狭く重いテーマを追求しているため、自己模倣を避けて発展させることには非常な困難を伴うだろう。今回詩語ベースの作品が目立ったことで、作風の展開に作者自身が閉塞感を感じているのではないか、という気がした。ならば、社会詠・境遇詠などというレッテルにこだわらず、好きに表現を広げていけばよいと思う。高田やその世代によって開拓されるべき前衛の未踏領域は、まだまだ広大にひろがっている。

2018/08/27 (Mon) 04:26 | EDIT | REPLY |   

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