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愚人正機

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(公開停止)対談「マスターベーション化する俳句の世界」:久留島元✖高田獄舎 

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※この対談記事は削除しました。7月15日の「週刊俳句」の記事をご覧ください。



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菅原慎矢(第五回芝不器男賞齋藤愼爾奨励賞)  

高田氏の行動へのコメント

何回か週刊俳句にコメントしたが反映されないようなので、こっちにコメントさせていただきます。週刊俳句も人力管理なので大変だと思いますが、まあ二重投稿になっても良いので。
***
いち早くオンラインに対応し、既存の総合誌とは段違いのフットワークの軽さを誇ってきた「週刊俳句」は、2000年代以降の俳句界に強いインパクトを与えてきた。結社誌・同人誌による縦割り関係が張り巡らされている俳句界において、掲載作品に明確な方向性をあえて出さなかったことが、結社等への所属意識の薄い若手を中心とする広範なネットワーク形成に重要な役割を果たしてきたことは、否定のしようがない週刊俳句の貢献であろう。一方で、週刊俳句の編集方針には不明点もある。具体的には、掲載俳句作品については編集部(西原天気氏と上田信治氏が中心という認識で良いだろうか)の依頼によるという形態の不透明さである。この点に対する忌避感こそが、高田氏の行動の背景にあるのではないか。

換言すれば、週刊俳句とは、編集部が掲載作家を選ぶという点で、俳句アンソロジーと類似した場と言って良いだろう。こう考えると、たとえば明確に個人名義で「天の川銀河発電所」を編纂した佐藤文香氏の覚悟ある立ち位置と比べて、週刊俳句編集部のポジショニングは曖昧である。今回の件では、西原氏が下記のツイッターコメントを残している「道義ってものを理解できないお子ちゃまを相手にしちゃダメってことです。これ、なんにでも言えることだから、メモね。」望んだものではないかもしれないが、アンソロジー編集者には権力が付与されてしまう。そのことに対する自覚はあるのだろうか。権力側がこのような不用意な言葉遣いをしていることに、筆者としては不快感を抱く。

一方で、高田氏の行動を考えてみよう。最先端を走る芸術家にとって、無理解な既存の枠組みを逃れ、自由な自作発表の場を得ることは不可避の闘いである。官展への批判から生まれたアンデパンダン展がなければ、現代美術はどれほど不毛なものになっていただろう。今回の高田氏の行動には、現状の場を否定し、新たな場を模索する明確な闘争意識が見られ、筆者はこれを無条件に支持する。この点が見えずに高田氏を批判している人は、すでに週刊俳句編集部に認められて、権力の内部に取り込まれているのではないだろうか。いったん自問してみて欲しい。

この高田氏による発表場所の模索は、最近の俳句界で孤立したものではない。愛媛新聞で始まった神野紗希・森川大和による「青嵐俳談」には、投句者は若者限定という縛りがあることも一因ではあるが、通常の新聞俳壇投句者とは明らかに異なる、名のある若手俳人がこぞって参加している。さらに、twitterなどを見れば、石原ユキオ氏、中山奈々氏、さらに高田獄舎氏本人も、自身の名の下に投句を募集し、活況を呈している。一方で、生駒大祐氏による詩歌SNS「poecri」が、完全に民主的な投稿サイトとして機能している。場を巡る闘いは、すでに始まっているのだ。

対談の内容について付記すると、久留島氏が高田獄舎作品に対して自らの評価を下していないことが目に付いた。実作者との対談である以上、まずは無心に作品に対峙することが、評論家としてあるべき姿勢なのではないだろうか。高田氏は、言葉の強烈さから来る好悪の別はあっても、現在まず議論されるべき作品を残している作者であるだろう。先日行われた芝不器男賞シンポジウムでも、彼の代表作とされる「コンビニの世紀コンビニで母殺され」について、そのメッセージ性の浅さを表健太郎氏と私が批判し、松本てふ子氏・田中惣一郎氏が弁護するという不思議な図が展開されていた。作品でインパクトを残しつつある実作者としての高田氏に向き合わず、扇動的な行動のみをクローズアップした対談を行うことには、どのような意味(意図)があったのだろうか。

2018/07/18 (Wed) 00:19 | EDIT | REPLY |   

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