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愚人正機

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「オルガン」句の自閉

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ここ数日見聞きしたことに対する、現時点(2018年6月6日時点)の自分の意見をまとめておく。


「オルガン」のメンバーの、特に鴇田智哉や宮﨑莉々香の句を読んだときに感じることは、それがひどく「自閉」したものであるということだ(それを私はTwitterで「オルガン村」の「方言」として揶揄した)。なぜ私はそのように感じるのだろうか。
曾呂利という人が書いた「鴇田智哉のわからなさ あるいは中山奈々について 」http://sorori-tei-zakki.blogspot.com/2015/09/blog-post.html という文章に、私が感じていることに近いことが書いてある。(いい文章なのでまずこれをしっかり読んでほしい。)

写生する対象へ向かって深化する、あるいは、俳句型式そのものを研ぎ澄まし、内へ内へ深めていく。
それは確かに、俳句の在り方としてありうべき方向であり、一句としての職人的完成度は「最強」である。

しかし作品の総体として立ち上がる「作者」鴇田智哉は、読者の参加を待つまでもなく完成され、孤独である。それは、中山奈々が必死になって立ち上げようとする「作者」像よりも、ずっと一本調子で、意外性のないものに見えて仕方ない。
引用した部分は記事の最後で曾呂利氏が鴇田の句の特徴と作者としての鴇田について述べた部分だ。〈作品の総体として立ち上がる「作者」鴇田智哉は、読者の参加を待つまでもなく完成され、孤独である。〉というところが、私の感じていることに特に近い。鴇田の俳句も宮﨑の俳句も、究極的には、彼ら作者しか、彼らの句の意味や伝えようとしていること、描こうとしていることを理解することができない。それは、句の持つ可能性を彼らが独占することを意味する。
意味の独占、そのいやらしさ
彼らの句を読むとき、それを感じずにはいられない。
読者は彼らの俳句を読むとき、可能性が閉ざされ、意味・伝えたいこと・表現したいものをほとんど読み取ることができない。だからここで読者は、大まかに言えば二つの道が与えられる。①わからないとギブアップする、②作者の俳句観に阿諛追従しながら読み解く。①を選べば、宮﨑の2018年6月4日のつぶやき

俳句の話です。この前も、いつも、言いそびれてしまっているのでこれを期にお願いしたいことなのですが、作品に対して「わからない」と言う評をいただくとき、何がわからなくて、何があなたをわからなくさせているのかの部分を知りたいです。これ大事なことだと思うので。よかったら教えてほしいです。


のように説明を求められるが、そこで、わからない理由を説明したところで、それに納得するしない、つまり理由が適切かどうかを断罪する権力は宮﨑(作者)のみにある。都合が悪ければこいつはわかっていない、都合がよければこいつはわかっている。そのような一方的な断罪の仕組みの結果、鴇田や宮﨑の俳句を批判的に読む人間が減り、鴇田や宮﨑の句に阿諛追従する俳人ばかりになり、「オルガン」の句はいつまでも肯定されつづける。

 

鴇田の句にしても、宮﨑の句にしても、そこには彼らなりの言葉に対する考えがあり、そこから生み出されたものだろうし、それは良いことでも悪いことでもないのだが、自己(とその句)の傲慢さに自覚的ではないのなら、またその自覚から句を変革させる気がないのなら、彼らの句を私は、


見るに堪えない自分勝手な日本語のスクラップ
としか思うことはできない。まあそれでも多くの俳人は、盲目的に彼らを肯定するだろうが。

 





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