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商売上手な「ネオ・ナツ」たち あるいは 俳人どもによる信者獲得競争の狂乱がもたらす予期せぬ地獄

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[商売上手な「ネオ・ナツ」たち あるいは 俳人どもによる信者獲得競争の狂乱がもたらす予期せぬ地獄]

〈滅亡のなかにあつて滅亡を知らざるもの、「終末の日」にあつて終末を見ざるもの、このやうなひとびとの狂乱の群をはなれて、ひとり燈の下に坐するとき、宇宙論的な虚無の感覚は、わたくしの皮膚のうへにしづかに露を結ぶのである。〉

(荒正人「終末の日」『第二の青春・負け犬』冨山房百科文庫)

 滅亡のなかにあって滅亡を知らざるもの、「終末の日」にあって終末を見ざるもの。荒正人が直面していたものはさておき、この文章を読んだときに頭に浮かぶのは、何人かの俳人の、極めて健康的な印象をこちらに与えるピンク色の形相である。

 

先週、「風土」への幼児退行をみせる北海道俳句協会会長の源鬼彦ら、〈地方〉俳人とその奴隷根性を批判したが、視点を地方からさらに、「俳句珍空間」と呼ぶべき状況にある、俳句界全体に移すと、そこはそこで、より深刻な問題(これに比べれば、所詮〈地方〉俳人の問題など、連中の無知蒙昧ゆえに成立するものであって、源鬼彦がしっかり現代俳句と俳句珍空間の問題についてお勉強をすれば一応の解決の目途がたつお話である。)をいくつも胚胎している。今回はその一つを取り上げたい。あまりにも商売上手な俳人たちのことを。

 

先日、面白い記事を見つけた。

 

ブログ「玖足手帳」で主に富野由悠季の作品の分析を書いているグダ氏が、俳人夏井いつきが「先生」として参加するテレビ番組プレバトの構造について言及している。

 

以下、「玖足手帳」の記事、「テレビヒットの法則!Gレコのために1」から引用する。


 ・

〈この番組が何を見せたいのかと言うのは時間配分やCMのタイミングなどを見れば一目瞭然で、ランキングが落ちて才能無しと馬鹿にされるタレントを嘲笑したり、あるいは名人の梅沢富雄などの失言や暴言を視聴者が楽しむものである。別に俳句をきちんと収めようとか、自分で俳句をきちんと考えて行こう、と言う教養番組ではない。単にランク付けされるタレントを見て嘲笑し、自分のゴミのような愚民の人生を紛らわす、実生活で会社や社会に低ランクの烙印を押されているごみのような労働者がランク付けされるタレントを仮初めのおもちゃにして憂さ晴らしをするだけの低俗な番組である。〉

〈重要なのはこのショーの演出において、レイヤーが分断されていることである。これは他の多くのテレビバラエティーにも言えることである。〉

〈俳句の先生は別のスタジオの部屋にいて、先生を呼べるのは司会者であり同時に道化である浜田雅功だけなのである。俳句の生徒と先生は分断されているのである。

 江戸時代の句会のように、サークルのメンバーが平等に同じ部屋にいて作品を見せ合い、顔を突き合わせて意見交換して俳句や技を磨くのとは違うのである。レイヤーが断絶しているのである。

 そして毒舌先生は安全な別室から毒舌の寸評を言い、才能がないと言われた人の顔のリアクションがワイプで映って視聴者を嗤わせる。

 また、その嗤いを盛り上げるために、声優の銀河万丈がそれっぽい声を出して俳句の先生の理論の正しさや、失敗した人の愚かさを声色で表現する。〉

 ゴールデンタイムに放送される低俗な番組「プレバト」の成功によって、夏井いつきはおそらく、日本で最も有名な俳人になった。去年の年末にはついに紅白歌合戦に出現し、金を稼いだ。しかし、このようにメディアに頻繁に出現する夏井いつきの句や句集について知っている人は、俳句関係者を除けばほとんどいないだろう。グダ氏は番組内にある「断絶」の構造を的確に見抜いたが、夏井いつき本人に注目すると、そこには(テレビタレントとして俳句界の外部に信者を獲得する、)商売人夏井いつきと作家としての夏井いつきという、また別の「断絶」も存在するのである。

それは、

Aタレントとしての夏井いつき

B作家としての夏井いつき

というような断絶でありまた、これに対応して、視聴者・読者も

A´主にキャラクターとして夏井いつきを消費する層

B´主に俳句の書き手として夏井いつきを消費する層

に分断される。


当たり前のことだが、俳人がある程度メディアに露出すればこのような「断絶」あるいは「分断」は避けられない。わたしはそのこと自体を批判するつもりはない。そこに本当の問題はないように思われる。

 

では、このような「断絶」がもたらす本当の問題とは何か。

それは、俳人にとって

1そのような「断絶」が、その俳人の作句能力や文学に携わる覚悟を問う視点をどこまでも遠ざけるということ(つまり、メディアの力で、「断絶」を作り出し、俳句界の外側に多数のA´の信者を獲得すれば、それが安全地帯となり、知名度を盾にして都合よくB´の層の批判からトンズラできるということ)

と、

(2)俳句界の成功者夏井をお手本にするようにして、そのような「断絶」、つまり、タレントとして肯定される自己と、俳人としての自己の断絶を積極的に利用し、権威を獲得してゆく俳人が増加すること

である。

 

この記事ではそのような問題を体現している俳人のことを(新たなる、しかしミニマムでやっかいな夏井いつきチルドレンとして、)「ネオ・ナツ」と呼び、今後何回かに分けて、若手俳人のなかでも最も悪質に「断絶」を利用している、【狡猾な政治家】北大路翼・【天の川島宇宙の天皇】佐藤文香・【俳句宗教家】中内亮玄らネオ・ナツの実態について告発し、ウドの街もとい俳句珍空間に強酸の雨を降らせる(つもり)。

 

・北大路翼について

 

 最初に結論を言ってしまうと、この人物にあるのは、メディアで無頼派俳句作家というを演じるタレントとしてのキタオオジと、信者を組織化しメディアから得た影響力を利用して計画的に権威を積み重ねてゆく政治的俳人としてのキタオオジ、という「断絶」であり、その「断絶」を利用して〈俳句で食える〉ようになることを達成しようとする態度である。

 

 北大路翼という人物の政治性をまず指摘したいと思う。これまでこのブログで批判してきたことをあえてここで繰り返す。

活動拠点としている歌舞伎町の土地柄や、屍派に社会的弱者が多く参加することを活用し、所詮はマイルドなものでしかない「アウトロー感」をメディア向けに販売して知名度の向上を図っているビジネスマン俳人北大路は、屍派の代表者でありながら、露呈すればメディアでの仕事を失いかねない、咲良あぽろや下村猛といった屍派のメンバーによるSNSにおける脅迫や恫喝を黙認し、その問題性を黙殺している。

北大路にとって、彼らは大事な信者であり、北大路を絶対に肯定し、北大路の批判者に噛みつく番犬的存在であるから、彼らの愚行を制することは北大路には不可能なのである。そして屍派メンバーもまた、北大路という存在のおかげでメディアに露出することができ、句が取り上げられることで承認を与えられ、その見返りとして、彼らは親衛隊として北大路を徹底的に擁護し、また、北大路の批判者に対しては突撃隊の役割をはたし、北大路の一挙一動を称賛し、ネットで拡散するのである。

そのように信者を組織化し政治力を確保している北大路がいる一方で、俳句界の外側に向けて、天の川島宇宙や出版やテレビの力と、そこから得た知名度を利用し、「歌舞伎町の松尾芭蕉」[i]といういかにもテレビ的なキャッチコピーを利用するなどして、俳句作家というよりタレントとして執拗にアピールを繰り返している北大路が同時に存在する。

タレント活動を積極的に行う北大路のねらいは明確である。それは今月14日に公開された東洋経済のインタビュー[ii]における発言〈子どもの頃から俳句をやってて、俳句で食えるようになりたいってずっと考えてます。俳句だけで食えてる人はほとんどいないから。〉に現れている。北大路のねらいとはこれである。

しかし、〈俳句で食えるようになりたい〉などという、バカげた大学生ユーチューバーのような北大路の願望に対して、わたしは氷水をぶっかけたいとしか思わない。それは、北大路のそのような願望それ自体が虚偽であるとみなすからである。


北大路の本当の願望は、〈俳句で食えるようになりたい〉ということではなく、夏井いつきのように、俳句タレントとして、俳句作家としての実力の有無と関係なく、食えるようになりたいということ(インターネットで「北大路翼」と検索してみてほしい。積極的に自己のキャラクターを前面に出すタレントの姿がそこにある。)、また、夏井いつきのように知名度に支えられた絶対的な地位を獲得したいということ、ではないのだろうか。

その願望というよりどろどろとした欲望を北大路は隠すように、普段から低俗なキャラクターを演じているくせに「金が欲しい。金のために俳句をやっている。全部金のためなのだ。だからメディアに露出せんといかんのだ」と素直に言うことはない。そのように言うかわりに、〈俳句で食えるようになりたい〉などと、いかにも俳句一本で生きていきたいというような真摯な作家としての姿勢を打ち出す(そこで、北大路の配下の突撃隊どもは、北大路のそのような姿勢と、普段のキャラクターとのギャップにくらくらしてしまうわけだ)。だが、メディアの力を利用してタレントとしてキャラクターを売り、稼ぐことは怠らないのである。


本当に北大路に俳句で食っていけるような才能があれば、これほどまでにメディアに露出してキャラクターをアピールする必要はない。結局、メディアの力と天の川島宇宙のバカ俳人どもの後方支援がなければ自身の俳句に限界があることを見抜かれてしまい、捨てられるということをご本人も十分承知なのである。


自己の愚劣さとエゴイズムを「歌舞伎町の松尾芭蕉」というコスプレとキタオオジ突撃隊の組織化によって覆い隠し、その私生活とは裏腹に、自己を完全に清潔な作家として保とうとする北大路のすがた。私はそこに、無頼派を演じつつ、政治的でもある彼の卑劣さを発見してしまう。


自己の人生をかけた表現ではなく、メディアを利用してキャラクターを売ること、そのために一般ウケのするいかにも作り上げられた安易で俗っぽい俳句を詠むことに腐心する(そしてさらに、俳句界では政治性を発揮し、それらの句を批判させない)北大路を、わたしはまったく応援する気になれない。そのような北大路の行動には、信者獲得、権威獲得の執念と、それによってメシを喰っていこうとするいやらしさと甘えしか感じられず、俳人として自己を高めてゆくという方向からかけ離れているからである。(メディアの側もまた、視聴率や閲覧数のために、北大路翼のテレビ映えのするキャラや、一般的な俳句のイメージとは違う北大路翼とその信者の俳句を利用してきたということも見落としてはならない。また、北大路翼の句のインパクトにやられ、ともすればポピュリズムに堕してしまいかねない、北大路という作家とその作品の性質を見抜けず、北大路の句集『天使の涎』を受賞させ、権威をあたえてしまった2016年の田中裕明俳句賞の選考委員の愚昧さにも大きな問題がある。北大路をここで批判したような行為に走らせた一因として、あの賞で本来獲得すべきではない権威を獲得してしまったことも挙げられよう。このような、俳句賞による権威獲得によってどこまでも変な方向に進んでゆく現象は、中内亮玄にもみられることである。)

 

ちなみに、今年の3月、北大路は新刊を出版する。「生き抜くための俳句塾」である。

ネオ・ナツは夏井いつきを呼ぶ、もとい、類は友を呼ぶとはこのことであろう。この本の帯には〈夏井いつき先生驚愕!!〉という文句とともに、夏井いつきの写真がでかでかと掲げられており、わたしは一瞬、夏井の著作であると勘違いしそうになった。しかしそれこそが狙いであり、ようはこの本の主な読者として、「プレバト」を熱心に見ているような連中(つまりそれは、創作者としての俳人ではなくキャラクターとしての俳人を消費することに慣れた連中である)を想定しているということのあらわれである。

(装画を「魁!!男塾」の宮下あきらという漫画家が担当していること、また、この本が左右社から出版されることもなかなか面白い事なのだが、これは佐藤文香のところで言及する。)

 

また、左右社のサイトにはこのような言葉が載っている。

〈捨てるなよ、汚ねえ感情を。

本当の詩は、世の中が捨てた中にある。ーー「はじめに」より〉

 

失笑してしまう。徹底的に世の中に執着する俳人が、キャラクターの消費者に向けて語る〈本当の詩〉などに、どれほどの価値があるのだろうか。

 

(ちなみに、この本の詳細が発表されると同時に、先に述べた東洋経済のインタビュー記事が発表になり、17日にはNHKのテレビ番組、「俳句王国がゆく」に北大路が出演する。いやはや、見事に計画されたメディア展開である。)

 

 北大路のような愚劣さとエゴイズム、それはわたしにもある。あるから、このようなブログで駄句と駄文をひたすらを垂れ流しているのだ。しかしわたしは北大路のように、それを「視聴者」向けにアレンジしてごまかしたり、自分の親衛隊を組織づくったりして隠蔽するような、卑怯をおかさない。自己の愚劣さとエゴイズムに徹底的に向き合い、それを晒し、テレビタレントどころではない、日本文学史上で最も醜い俳人として生き抜いてやる。

(ここまで書いておいて、驚かれるかもしれないが、わたしには北大路に対する私怨はない。印象だけなら、むしろ愉快さすら感じないではないし、俳句珍空間のマヌケな珍老人どもや人参屋の鴇田とならんでマスターベーションに耽る珍若手に比べればまだ好意を持って眺めることのできる俳人である。北大路がいくら俳句を凌辱しようとわたしはいっこうにかまわない。わたしはただ、北大路の言動には真実がないことに激しい怒りと憎しみを覚えるのである。自己の愚劣さを利用してメディア向けに見事なペルソナをつくりあげ、一方で、自己の真の欲望はひた隠しにして、無傷のまま利益を獲得しようとする都合のよさ、その器用さ、世渡りの巧妙さ。それらは、現代俳句の「暗い谷間」を乗り越えるために戦わなければならないこれからの時代を担う俳人の、あるべき姿ではない。)

 

 



 ところで、だ。

 俳句宇宙を支える世界樹(ユグドラシル)はもうすでに燃え始めている。

 あなたはどうするのか、

 だれを批判するのか、

 批判せずに見ているのか、

 だれかの批判を結局は単なる嫉妬やルサンチマン的言論であるとし、ダイソンのサイクロン式小型掃除機で合理的に吸いとるだけなのか。

 それを俳句関係者に問いたい。特に、若手俳人(こう呼ばれる連中の、少なくとも半分以上は俳句珍空間における珍権威の奴隷にすぎない。)に対してより、今、ニヒリズムに陥りかけつつ、それでも俳句を書こうとする全年代の俳人に対して。

 

 

夏井いつきは「俳句の種を播きたい」という[iii]。私はそれを否定しようとは思わない。


しかし、一つだけ、わたしは夏井に問いたい。


「それではいったいだれが、俳句界という腐りきった大地を耕し、種を播くための土を造るのかね?」

 




[i] https://tokyojapan3939.com/kitaoojitsubasa-yofukashi-6672

[ii] 40歳、歌舞伎町で俳句を生業にする男の稼ぎ方」https://toyokeizai.net/articles/-/264342?page=6

[iii] 「俳句の種、バズーカ砲でボーン プレバト人気の夏井さん」https://www.asahi.com/articles/ASLDX3PGYLDXPFIB005.html


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〈地方〉俳人の限界 あるいは キャベツの切断と牛の飼育がもたらす予期せぬ奇跡


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昨日、新作映画『劇場版シティーハンター 新宿PRIVATE EYES』を見た。シティーハンターについては漫画版にもテレビアニメ版にもほとんど触れたことがなく、「Get Wild」とかいうカッコつけたEDの映像を見たことがあるだけだったが、Yahoo映画の評価がやたら高いので、初心者でも楽しめるか、新宿が舞台なら、「砂の城」をバズーカで爆破してくれるのかと思って見に行ったが、自分には合わなかった。アニメ映画というより金曜日のテレビで二時間の枠で流れるレベルの作品だった。

現代の新宿を舞台としたハードボイルドなストーリーに適度にギャグが織り込まれた本作だが、アクセントとなるべきそのギャグがいかにも漫画のひとコマをそのまま映像にしましたといった感じでアニメらしさがないし、ギャグ自体がどこかワンパターンで飽きる。この引き出しのなさが気にかかった。また、かつてテレビアニメ版で活躍した豪華な声優を起用してはいるが、いかんせん彼らは年をとりすぎており、登場キャラの若々しい見た目にそれほど合っていないし、またキャラの性格自体もどこか古臭い。特に主人公の冴羽が見た目に対してあまりにも子供っぽく、80年代ノリの浮かれた日本の若者といった感じなのだ。やんちゃなキャラとして設定されていることはわかるが、舞台はあくまで現代の新宿なのである。冴羽のキャラは深刻なものをいくつも経験した現代の日本の若者の姿からかけ離れたものだ。監督からしたら、ファンのために冴羽のキャラをそのまま生かしたのだろうが、ファンではない私からすると、妙な気持ち悪さがある。

ただ、スピード感のある、冒頭のカーチェイスとラストのビルでの戦闘シーンは良かった。いっそのこと下手なギャグを抑え、全体を通してそれらの良質な戦闘シーンのテンションを維持できれば、アニメ「映画」として通用するものになっただろう。

しかし、そのような戦闘シーンにも問題はある。まず、本作における悪役の、IT企業の若き経営者である御国真司は、ドローンや多脚戦車を駆使し、新宿という街に「Warfare」つまり戦闘をもちこむことで自己の権力を誇示するとともに、自身の会社で開発している、兵器を運用するシステムを世界各国の武器商人に売り込もうとするのだが、街に「Warfare」をもたらすという態度をとるからには一般市民を巻き込むのかと思いきや、狙うのは冴羽とその仲間だけ。まともな知能があれば一般市民と冴羽たちを同時に標的として、冴羽たちが一般市民を守りつつ戦わなければならないような状況をつくりだして苦しめるというアイデアがあるはずだが、米国大学卒のインテリという設定の悪役のくせにそういう発想はない。結局、冴羽たちは戦闘用のドローンや戦車を新宿御苑(笑)に誘い込んで思う存分ドンパチをやり撃退する。自衛隊なんか一切登場しない。庭のなかのヌルマ湯的戦闘がひたすら展開されるだけ。押井守が『機動警察パトレイバー2 the Movie』において、現代の我が国における戦闘とはなにか。そのような状況がもし都内で展開された場合にどうなるか(また、アニメとして、それをどこまで描けるのか)を限界までリアリティを突き詰めて物語ったことにくらべれば、本作で描かれた状況はどこか余裕があり(そもそもシティーハンターって主人公が銃をぶっぱなしまくっている時点でリアリティもクソもない作品だってことはわかるけどさぁ)、本作をわざわざ見に来た観客に対する問いかけがない。そのような政治性を一切ぬきにしたエンターテイメントに徹するというのが、監督の選択だったのだろうが、ならば先にのべたように、派手なシーンを連続させた『マッドマックス 怒りのデスロード』のようなものを目指すべきだろう。中途半端なのだ、なにもかもが。

しかし、私は本作の監督に同情する。現代の東京を舞台にドンパチを描くことの難しさを十分に承知しているからだ(『シン・ゴジラ』や『機動警察パトレイバー2 the Movie』でさえも、完全なドンパチを描けなかった)。なぜ難しいのか。書けばバカみたいに長くなるから、この記事を読んでくださったみなさんにはヒントだけを与えたい。「天皇」と「憲法」である。

 

さて、本題の、俳句の世界のはなしに入ろう。

 

(以下、記事のなかで〈地方〉俳人という言葉を使う。週刊俳句の記事「【週俳600号に寄せて】地方の俳句愛好者として望むこと」[i]で、浅川芳直は週刊俳句586号の久留島元と私の対談に言及し、

〈ただ一読者としての私自身は、中央の若手の党派性とか、人脈がどうこうといった話題にさして興味が持てませんでした。地方にいて知りたいのは、中央の人たちがどんなことを議論し、どんなことに関心をもって実作をしているのか、ということ。地方にいると、流行にひきずられることなく、ぶれない態度で自然と向き合える半面、自分の行き方を客観視しにくいところもあるので、若手の人たちがどんなことを考えているのかを知りたいわけです。人間関係とか権力とはどうでもいいですから、地方にいる人間としては中央にいる若手がどんなことを考えているか、議論しているか紹介してくれるような特集号をちょっとだけ期待します。〉と述べたが、この文章における浅川のような、〈地方にいる人間〉という意識にとらわれたマヌケ俳人のことを〈地方〉俳人という。私はそのような俳人を主体性に欠けた存在とみなし、嫌悪する。)

 

先日、ある本が私のもとに届いた。

北海道文学館俳句賞作品集、『架橋』である。

ここで注目したいのは、この賞の受賞作品よりも、この選評において、選考委員が語っていることである。私はそれを読み、まったくもって無能な〈地方〉俳人である選考委員どもに血だらけの牛の屍を投げつけてやりたくなった。(この記事では深く追わないが、この賞についてはいくつかの疑問がある。応募時になぜ職業を記載することが必要なのか。「酪農業」や「作家」であることが応募者の作品を評価するときになんらかの基準となるのだろうか。また、選考委員の知り合いと思しき人物が多く受賞していることも気にかかる。また、優秀賞の「有と時」は唯一の前衛的作品ではあるが、個人的には、無駄に抽象的な言葉を並べたてた雰囲気のみの作品であり、受賞に値するほど質の高いものとは思われない。作者がある大物作家であることも、政治臭のする疑いを私にもたらさずにはいられない。また、未来賞の受賞作である三品吏紀の「木星の匂ひ」の、〈キャベツ切る切る切る自我は片隅に〉という作品だが、選考委員のみなさんは、かつて俳句甲子園において、ある高校生が詠んだ〈キャベツ食う食う食う泣いてなんかない〉という句をご存知だろうか。[ii]

 

俳人協会幹事、北海道俳句協会常任委員の辰巳奈優美は、〈大賞に推した『牛を飼ふ』は、酪農家として、寒い季節の牛たちの表情を愛情深く詠うとともに、北海道の風土を伝え、繊細かつ力強い作品に仕上がっていると感じた。〉と述べ、また、〈記念賞に推した『あをあらし』は北大寮時代の回想とも思われる。〉と述べる。

北海道新聞俳句賞選考委員の永野照子は〈全体には北海道の風土を詠う作品や。個性的な作品との出会いが印象に残った〉という。

他にも、「風土」への傾倒をにおわせるようなコメントを残している選考委員が数名いる。

全体的に、作品のこういうところが優れている、という以前に、いかに風土が反映されているか、北海道への忠誠があるかが評価されているようなきらいがある。

 

最も酷いのは、北海道俳句協会会長の源鬼彦で、〈北海道の文化や歴史などを含む風土を礎としていると思われる応募作品に注目して選考した。そういう作句姿勢がこのところ希薄になってきていると憂いてもいるからである。いわゆる東京を中心とした全国区的な俳句には、その地域の顔が無いと断言できるからである。〉と述べる。あまりにも狭隘な俳句観である。これはもはや風土至上主義であり、〈地方〉俳人の究極の姿ではないか。

 

憂うのは勝手だが、作品の〈礎〉に風土を求めるのであれば、開催要領にも募集チラシにもその旨を(せめてキャッチコピーみたいなものでも)記載しておくべきだが、そこには「風土」の風の字も書いていない。風土を意識せず、それでも自己の才能をかけて作品を送った応募者も少なくないはずだが、そういう存在を軽視する源鬼彦のこのような態度には疑問を抱かざるをえない。

 

北海道の風土が描かれているとして、それはテレビドラマなどで描かれ消費されるものとしての風土と、また、東北などの風土と、何が違うのか、都市としての札幌を詠んだ場合はどうなるのか、タイトルに地名が入っていれば満足なのか、それらについて、どう区別をつけてゆくのか。拠り所とするのは「実感」だけなのか。それを示すことなく、源のように風土を安易に賛美する典型的〈地方〉俳人の浅はかさには呆れてものが言えない。しかもそのような人物が北海道俳句協会会長を務めていることに、私は、北海道の俳句の可能性について、落胆するところがある。源のような態度は、北海道の俳句から、風土詠を引き算したら何も残らない、というような状況、また、風土詠以外は読むべきものがない、という認識を生み出しかねない。「風土」を錦の御旗として、他を圧し潰す権利は、誰にもないはずだ。

 

北海道の〈地方〉俳人にはもう一つ特徴がある。俳句界の権威を無邪気に肯定してしまうということだ。彼らが、去年、北海道の俳人鈴木牛後が角川俳句賞を受賞したこと(〈地方〉俳人にとってそれは、〈中央〉から認められたという、誇るべき結果なのだ。)をいつまでも騒ぎ続けているのもうんざりだが、今年の三月、佐藤文香を呼んで講演会を開催する(しかも当日、「佐藤文香賞」なるものを用意する[iii])というのだ。〈中央〉で注目されている若手俳人を呼んで盛り上げようという魂胆だろうが、『天の川銀河発電所』が自身を中心とする「天の川島宇宙」を生み出したことや『そんなことよりキスだった』を島宇宙の力でゴリ押ししていることなど、近年の佐藤は俳句作家というより株式会社俳句珍空間のビジネスマンに近い。そのことへの評価を抜きにして、佐藤文香をゲストとして招待し、作家様として無批判に持ち上げるというのであれば、私は今後一切の、北海道の俳句の発展に関わる行動への連帯を、拒絶する。



海道の俳句界は、私が望む、中央も地方も超越したスリルのある空間どころか、チープなスリルすら存在しないのだろうか。





[i] http://weekly-haiku.blogspot.com/2018/10/600_21.html

[ii] http://spica819.main.jp/yomu/20152.html

[iii] http://www.h-bungaku.or.jp/index.html


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獄舎神父の挨拶、あるいは、黎明のクソ鳴り響くことがもたらす予期せぬ奇跡

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結社 俳諧防疫給水部「糞鳴」 主宰 高田獄舎

 

 

獄舎神父の挨拶

 

はじめまして。

俳聖、高田獄舎と申します。

すでに実力派俳人として有名ですが、ありがたいことに数日前より私に兜太(大爆笑)現代俳句新人賞に応募して欲しいとのお声が各方面から寄せられております。その面倒なお言葉に応えるべく、また様々のご縁により、この度あたらしい形で連作を書き上げることとなりました。

どこまで赤面させられるかはわかりませんが、私なりに精一杯努めさせて頂きますので、皆様、なにとぞよろしくお願いいたします。

 ご寄進

(過分なるお祝いを頂戴しております。頂いた順にお名前をあげさせて頂き、感謝申し上げます)

 

 ワシントン   ドナルド・トランプ様

 平壌      金正恩様

 地獄      ミルトン・フリードマン様

 



「糞鳴」の理念


俳句界とは、クソである。

俳句珍空間という大便である。

 それが大袈裟だと言うのならば、俳句賞と権威主義というクソである、と言いかえようか。

 しかし、それはつまり、最後には俳句珍空間という大便になろう。

私は今、部隊をつくる。小さな島宇宙を渡るためオンボロ中古車に乗り込み、大きな地獄を乗り越えるため俳句賞の選考委員に跨る。俳句界という地獄を巡るのため、ノアの箱舟の錨を上げるのだ。

 

権威の拳を振り上げて、どこまでも他人を痛めつけることのできる俳人どもを、しぶとく追跡するための部隊である。

 

自分が選考委員として推した作品が受賞した、などという下衆な成果の主張と島宇宙的同調圧力に押し潰されそうなこの俳句界を、憂鬱に生き抜くための部隊である。

 

俳諧防疫給水部は、君の苦しさをホッタラカシてくれよう。君の安寧を踏みつぶしてくれよう。

私が大切に想えるのは、せいぜい、この声が届く優秀な俳人にすぎない。

この中古車の中が、その距離だ。

 

一人でも多くの仲間を乗せられたらいいなどとは思わない。私はその程度の人間ではない。

さあ、共に、日常を直視する俳諧地獄を、行軍しよう。

 

 

 

 黎明のクソ鳴り響く毒沼かな

 

(※この記事は以下のサイトを参考にして書かれました。この記事の内容がどこまでフィクションかはご自分でお考えください)


https://getsumeikai.wixsite.com/mysite




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大森静佳 あるいは がんじがらめの主体がもたらす予期せぬ奇跡


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 今年、応募しようと思っている「塔新人賞」の、去年の受賞作や候補作(「塔」2018年7月号)を読んでみたが、レベルが非常に高い。〈細腕をくくと撓ませ殻を割る遺伝子欠失白き眼のハエ〉の受賞作近藤真啓「『Lao-tse』を読む」は、海外の風物を取り上げつつ、作中主体を通して一人のか弱い知的な日本人の姿が浮かばせる。しかし、安易な弱さアピールではなく、弱さを笑い飛ばすユーモアもこの連作には込められている。表現は多様。こういうインテリ特有の生ぬるさがある連作は私の好みではないが、作者の力は疑いようがない。受賞は妥当と思う。

 

 候補作の一つである永久保英敏「静浦の海」にも言及したい。私にとっては掲載された応募作のなかではこれが最も優れているように思われた。選考座談会で松村正直が「文法的に気になるところは少しありました」と指摘しているように、文法上の気持ち悪さはあるのだが、〈日に乾く砂に壺から這い出でて蛸は糸引く墨を吐きたり〉の「糸引く墨」や〈市場下の大日陰吹く風にいて海に肢体を舐められている〉の「肢体を舐められている」といった読者を生々しい感覚に導くような描写は応募作のなかでも独特、個性的であり、その部分は応募作より優れている。受賞は逃したが、永久保が詠んだ海の町は私の記憶に残りつづける。

 

二作のみを挙げたが、他の応募作も己の人生をかけて詠んだという気迫が伝わる好作ぞろいであり、去年の五月に塔に入会した私は塔新人賞で激しく競い合うこれらの作品を目撃したときはじめて、塔という結社を選択したのは正解だったと思った。また、さらに好感を持ったのは、選考座談会の内容である。選考委員の誰一人、作品を雑に扱うことはなく、あらゆる角度から応募作の真価を問うというより、真価を探ってゆく。賞の選考とは、賞の選考に臨む覚悟とは、こういうものだ、ということを教えてもらった。比較するのもつまらないことだが、去年、俳句の世界で、中内亮玄という俳人-彼は去年の北斗賞と現代俳句新人賞の選考委員である-が賞の応募作を「私を赤面させる」「賞を取ることを第一に俳句を詠んでいない」「瑕疵あるアウトレット品」と一蹴したのとは雲泥の差どころか高天原とウンコの差である。

 

おっと、いかにも無名無冠の三流俳人らしい汚い話はやめにしよう。今回は、塔の会員のなかで、最も注目している歌人について少し語りたい。

 去年だったか、塔に入会する前だが、大森静佳の歌集『カミーユ』を書店で目撃し、なんだ、カミーユって、ガンダムか?と思い、パラパラとめくって、なかなか良いと思った。最近の若い歌人にありがちな、だらだらと身辺の事情をユーモアを漂わせながらツイッターのごとく語るような、にゃんこスターのネタよりくだらんし笑えんしセンスの欠けている歌ではないところが、まず、良いと思った。入会してから、大森が塔の歌人であると知って、毎号、大森の歌をチェックしているのだが、やはり良い。

 

去年の「塔」6月号から今月号までの大森の作品を眺めて思うことを二つ挙げたい。まず、彼女の歌には、自己を強く抑制する器用さをもちながらも、そのような自己を絞るようにして感情を吐露する、肉体を持った一存在が、強くあらわれているということである。痛々しく、濃密な、感情の吐露、ある歌ではぎりぎりのところでとどまり、ある歌では激しく流れ出す感情。これが一点目。もう一つ。大森は恋愛を詠んだと思われる歌をいくつか書いているが、そこで安易なものに流れていない。恋愛を詠むが、それは恋愛ではなく〈恋愛〉である。つまりラブストーリー的な、共感を誘うようなものではなく、むしろ共感自体を崩すような、恋愛に対して多くの人が抱くあらゆる幻想を酸で溶かしていく(奇妙な表現だが、これ以外に言いようがない)ような、読者を強い力で突き放すような〈恋愛〉(または〈愛〉)がある。読者に対して、大森は簡単に答えを与えない。(最近、ある俳人が『そんなことよりキスだった』という恋愛小説を出版したが、その一冊は大森の一首にすら及ばない。)

私ごときの大森の歌に対する認識はその程度。もう一段階、より高い次元から大森の歌を読み解くことができそうな気もするのだが、今の私の能力ではとりあえずこの程度。以下、塔に掲載されたものの中から、いくつか取り上げる。

 

聡明なひとと言われて手のなかのにじいろの蜘蛛も渡せないのだ

(「塔」2018年10月号、十代二十代歌人特集)

 若者に与えられる誉め言葉としては、「聡明なひと」というのは完璧で高級なものであるが、それゆえに受け取った側を非常に束縛する。その誉め言葉に対し「にじいろの蜘蛛」が「渡せない」という態度が示される。虹色の蜘蛛! 一句を彩るこの言葉があまりに美しいから、かえって、「聡明なひと」と一側面を切り取られることのくやしさ、その絞り出るようなくやしさが一首を満たす。

虹色というのは、

くるしさをくるしさで堰きとめたって孔雀の首には虹色がある

(「塔」2018年8月号)

にも表れる。くるしさを抑えるのに別のくるしさを必要とする。それは不器用な人間ではなく、むしろ「聡明なひと」と他人が認めるような、器用な人間にこそ見られる性質ではないかと思う。大森の歌の世界において、虹色は〔器用な人間としての作中主体〕の外部にのみ存在する、器用な人間だからこそ到達できぬ〔憧れ〕を象徴したものではないのかと思う。

 

前のめりにパスタを啜っているひとの暗黒の耳のなかへ落ちたし

(「塔」2018年9月号)

「前のめりにパスタを啜」るということは、姿勢正しく、啜らずに食べるているのではないから、下品に食べているということだと思うが、そのようにパスタを貪る者の「耳のなか」に暗黒を見て、その中に落ちたいというのは、一見退廃的な感情のように思えるが、大森の他の歌を読むと、この歌のように退廃的なものが少ないのが、この歌について読むうえで気にかかる。この歌にはむしろ、興味、暗黒への興味が込められているではないかと思う。作中主体は暗黒に身を浸し、そこで自己にどのような感情が生まれるかを試したいという願望があるのではないか。

 

きみの持つ記憶に鍬を振りおろしそのまま鍬も埋めてしまった

今そこにあるはずの手が欲しいのに泥なのだぜんぶ時間も距離も

(以上二首、「塔」2019年1月号より)

これは一つの身勝手でくだらぬ解釈にすぎないが、たとえば、これらの歌の「きみ」や「手」を、作中主体が愛している(いや、愛していた、か?)人物とその人物の手だと考えてみると、非常に激しいものが流れ出してこないだろうか。一首目、「きみ」の記憶に鍬を振りおろし、その鍬も埋める。埋めるときに用いたのは自らの手だ。そのようにして葬らなければならない記憶があり、そのようにして葬ること。淡々とした表現だからこそ、そこに悲しみがあることが伝わる。伝わるだと?私はそのようにしか書くことができないわけだが、しかし、そのような第三者的な受け取り方をこの歌はゆるさないだろう。読者はこの歌を通じて、この歌の現場に立たされる。

二首目は「手」だけではなく、その手がある時間も、その手への距離も容易く崩れ去る「泥」にすぎないのである。土ではない。砂でもない。土のように簡単に固まることはできず、かといって砂のように手から零れ落ちるだけでもない。ある程度、留まりながら、しかし流れてしまう「泥」。作中主体は「手」にすら触れられず、もはやなにもかもをもどかしく感じている。(しかしそのような感情を「泥なのだ」と正確に認識してはいる。やはり、この作中主体もどこか器用である)

曼殊沙華の茎のながさに触れながら怖いと言った怖いと思った

(「塔」2018年12月号)

「怖い」と言って、「怖い」と思った。しかしその間には作中主体を心身を貫く恐ろしい感覚があるはずだ。曼殊沙華の茎は長いが太くはない。容易く折れ曲がりかねないその茎に、折り曲げてしまいかねない人の手で触れる。想像してみれば繊細で美しさすらある景だが、もし思いがけず折ってしまったとしたら一瞬といえども罪悪感に襲われるだろう。そしてそれは一瞬だからこそ、戦場の死体の写真を見てしまったときしばらく妙な罪悪感に縛られるように、作中主体を縛り付けるかもしれない。

 

胸のなかの蛾と蛾が強くこすれあうしんと黙って抱きあうとき

(「塔」2018年6月号)

この歌も恋愛をテーマにしたものであるのかもしれないが、そのような消費を大森はつねに退ける。上に書いたように大森の詩才によって恋愛は〈恋愛〉になる。いつ崩れかけるかもわからない人間同士の感情の交流のようにも、むしろもう崩壊してしまった恋人同士が互いをいたわりあうようにも、この歌は解釈できる(が、解釈するのが恐ろしくもある。それは私が知る程度の「恋愛」のように穏やかなものではないから)。「蛾と蛾が強くこすれあう」というイメージが提示された時点で、私の頭の中には晩夏の夜の闇のなかでつぶれて一つの粉と体液のあつまりとなった〔蛾だったもの〕のイメージが姿を現す。「抱きあうとき」まで読んでそのイメージは確かな輪郭を持ち始める。この歌の蛾はあくまで「胸のなか」にいる、実体のないものであるというのに。

 

がんじがらめな八月にいる 表情のかすかな炎も受けとめきれず

(「塔」2018年11月号)

他人の表情に浮かんだ「かすかな炎」など、詩を書くような人間以外は受け止めない。というより、そのような炎を目撃することすらないだろう。だが作中主体はそれを目撃し、受け止めようとしている。八月、多くの人々があちこちで遊んでいるような時期、「がんじがらめ」という感情のままで過ごさざるを得ないのだ。大森の歌を読むとき、絶えず浮かび上がる〔器用な人間としての作中主体〕がここにもいる。そのような私の読解に対して、器用ならば表情などやり過ごすはずだろうという反対意見が予想されるが、私は、(この歌の作中主体は)器用な人間だからこそ他者の感情を容易く処理することはできないのだ、器用な人間こそ、他人に感情をぶつけられやすく、またその感情を適切に処理しない限り、その「他人」には許してもらえないものだから! と強く返答するつもりだ。

 

 

以上、好き勝手に書きました。読者のみなさん、相変わらず滅茶苦茶ですまない。今後もこんな感じで、「塔」を読んでゆけたらと思う。よろしくね。


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レッドフェイス あるいは 第九回北斗賞がもたらす予期せぬ奇跡


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前回書いたブログの記事に対して、偉大なる第九回北斗賞選考委員にして、今年の兜太(笑)現代俳句新人賞の選考委員でもある中内亮玄大僧正がメールをよこしてきた。記事に対する反論であるならばコメント欄に何か書けばよいと思うのだが、大僧正の選択は、メールフォームで私に直接連絡をとるというじつに大胆なものだった。

大僧正からの最初のメールに「ウンコ食ってろ」と返信して以降、彼と何度かやりとりを繰り返したが、事態はどうも、現代俳句協会に中内亮玄の資質を問うメールを送り、その後の判断は協会にゆだねるという方向に落ち着きそうである。

大僧正からのメールの内容については、彼との約束があるので公開することができないし、双方が罵りあいを繰り返しただけなのでここで公開する価値もない。

 

が、気になるのは、彼が、私の告発を選考委員への「脅迫」ととらえ、「応募者の資質」という言葉を持ち出して反撃してきたことである。これには、反論しなければならない。

 

まず、「脅迫」の内容は、私が想定するに、≪1、私が中内をブログで糾弾したこと、2、私が中内とのメールにおいて、今年の現代俳句協会新人賞の選考委員を辞退しなければ、今後も俳句賞の選考などにおける中内の言動をチェックし続ける、と書いたこと≫が考えられる。

 

選考委員の中内の立場に立ってみれば、たしかにこれらの「応募者」の行為は、自らの立場を脅かすものとしてとらえることができるだろう。中内にしてみれば、私は、選考委員の言動に対して爆撃を繰り返す前代未聞の応募者であり、「オレよりも、このわけのわからんクソガキの応募者こそ資質が問われるべきではないのか」、という思いではないかと思う。

 

しかし、中内が「脅迫」としたこれらの私の行為、つまり、≪選考委員の選評における発言や、選考委員の俳句を見る目を疑うこと、そして問題があればそれを積極的に糾弾すること≫こそ、北斗賞だけではなく、波郷賞にしてもG氏賞にしても北海道文学館俳句賞にしても、俳句界を担う作家を発掘する俳句賞にとって、必要なことではないのか。そこに、現代の俳人が変化すべきところがあるのではないのか。

 

 「そのようなお前の考えは、選考委員のセンセイ方に失礼ではないか!」

 

 そう思われる方もいるかもしれない。もっともである。私もそう思う。だが、ここが肝腎なのだが、私が言いたいのは、『その程度の倫理は、俳句の未来のために爆破せよ』いうことだ。

 

 読者諸君(こっそりこのブログを読んでいる、読んでいるくせに、ちっとも私に原稿を依頼しようとしない出版社やテレビ局のケチなキミたちもだよ)、俳句賞の現状を目撃せよ。この数年、俳句賞が賞を与えた作品のなかに、本当に傑出したものがあったか? 本当に納得したものはあったか? おもしろいものはあったか? あったとしても、それは片手で数えられるほどではないか? 私は書店で各賞の受賞作を読むたびに、ひどく疲労してしまう。

 このような惨状の原因はなにか。まず思い浮かぶのが、書き手の問題、つまり書き手の勉強不足、教養不足、修練不足、才能不足。それらは総合誌でまだ昭和をひきずってやがる大家の老人どもが上から目線でしばしば指摘するものだが、いまさらここでそれらの問題について語るつもりはない。

 

 われわれは、忘れていないか? もうひとつ、「選び手」の問題を。選び手、書き手ではなく、選び手! 彼らに注目しなければならない。「えらいセンセイに読んでもらってうれしいなあ」「〇〇先生の選をもらってよかったなあ」、もはやうんざりするほどありふれた、応募者共のそのような感覚、そのような認識、まるでディズニーランドで巨大なオスの鼠に握手してもらったときのような反応、それこそ、選び手の問題を隠蔽する!!

 

有史以来、選考委員とは人間である。人間であるのだから、時に不可解な判断をすることだってあり得る。中内亮玄が第九回北斗賞において示したように、自分が赤面したという、まさにそのことだけで、また、その作品が「賞を取るために書かれていない」という、その奇妙な認識だけで、選び手は、応募者の作品を核廃棄物に変化させることもある。しかし、非常に残念なことなのだが、俳句界は金がないから、高速増殖炉もんじゅがない!


私は人間中内亮玄を攻撃しない。俳句を愛する同じ日本の仲間。どうして彼を嬲り殺すことができようか。しかし、第九回北斗賞における中内の判断と、中内の俳句を見る目、その目だけは遠慮なく攻撃する。なぜなら、彼は今後も選考委員の座に居座り、作家を発掘する仕事をし、そうして、奇妙で不可解な判断をまた行ってしまう可能性が、ないとは言えないから。


選び手(選考委員)とはなにか。選び手の仕事はただ優れた、それでいて自分好みの作品を選ぶ? そう思う者がいるか? そのような消極的な態度であるから、俳句にはもう、未来がない! 選び手は、選び手であるからこそ、今、ここに、この時代に、この俳句界にとって、価値のある作品、または、俳句界を脅かす作品を、主体的に積極的に選び取ることが必要ではないのか。中内のように、作品に対面して赤面してしまうのでは、話にならない! また、これは中内のことではないが、自分の身内を優遇して点を加えたり、受賞させたり、恩があるから、関係があるから、そういう人間的ないやらしい理由で、賞を与えたりすること。そういうのは、その賞が発表されたときは大いに盛り上がるが、その裏で、多くの、本来賞を与えるべきだったすぐれた才能を虐殺しているのと同じだろうが!


そのような選び手の失敗を指摘し、再び同じ悲劇を繰り返させないためにこそ、選考委員に対する糾弾は、それが妥当なものであれば、選考委員の地位や権力や年齢におびえることなく、俳句界全体で肯定していかなければならない。それが、私の主張である。

 

中内はもちろん、中内以外の、選び手の仕事を担う俳人に、私は、もはや祈るような気持ちで、頼みたい。選び手は、書き手よりも重い。選び手の選択が、俳句が面白くなるのを5年も10年も遠ざけることになる。それを今一度、自覚してほしい。俳句界全体というものを、責任をもって考えてほしい。俳句を書くのは遊びであってもいいが、俳句を選ぶのは遊びであってはならない。それは人の人生に、俳句界の未来に、深くかかわってくる。人生の余暇、死ぬまでの暇つぶし、道楽、小遣い稼ぎ、その延長で俳句賞の選考に関わるのであれば、私は絶対に許さない。血の付いた短刀に狙われている、そういう気持ちで、選考に挑んでもらいたい。俳句を愛しているのなら、選考に命を賭けなさい。

 

 

 

ここまで書いてわからないのなら、ウンコ食ってろ。



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