FC2ブログ

ピエロ・岸本・ブーメラン

1506076402790.jpg 


最近の俳句界に跋扈する道化たちについて

 

最近の俳句界はどうも、芸人に注目しているらしい。ピース又吉やプレバト関係の芸人と組んで小遣い稼ぎしているインチキ臭い俳人どもがいるのもそうなのだが、「俳壇」五月号(第36巻5号)の「新・若手トップランナー」のページを見ると、今月は俳句をやっている芸人を特集しているらしい。

和服を着て、崖のような場所で気取ったポーズをとる中年の姿が写っている。一目で、金をかけて撮影された、演出に凝った写真であるということがわかる。以降のページには作品と彼の小文が載っているが、作品は他愛ないレベルのものでクスリとも笑えないから言及するまでもないが、小文には大笑いさせてもらった。説教臭い物言いで、俳句とは何の関係もない、国体に出場しただの、音楽活動がどうだの、人間関係がどうだのといったゆかいなエピソードをところどころで挿入し、自己の俳句観などを一切提示しないまま自慢と自己宣伝だけして終わりなのである。

この小文にみられる、あまりにもしつこい(読んでいて赤面させられるような)自己演出と、自分に都合の悪い歴史(去年この人は現代俳句新人賞や北斗賞の選考委員としての能力の限界を晒しただけでなく、確か、俳壇賞だか、俳句四季新人賞に落とされていたはずだが。)を一切無視する極端さは、あれは人を笑わせるための、意図されたものだろうとおもう(さすがに、そうだよね?)。あれは遠回しに日本政府のクールジャパン政策と歴史修正主義を揶揄しているのでしょう。うん、それならば面白い。俳句界にもなかなか面白いピエロがいたもんだと、いやあ、笑わせてもらいました。さすがは金子兜太の弟子です。

 

ちなみにその方の作家論?を岸本尚毅が執筆しているが、岸本は第10回田中裕明賞の「選考委員の言葉」[i]でこのように述べている。いやあ、これにも笑わせられました。

たとえば「凍蝶といふ肝胆の凍てごこち」(『記憶における沼とその他の在処』)、「綿虫の青きいのちを掬ひけり」(『馥郁』)、「しやぼん玉地球の色の定まらず」(『尺蠖の道』)といった句は「気の利いた言い回し」が使われているが、しょせん底の浅い面白さでしかない。この種の「書き急ぎ」は読者の読みの深まりを妨げるものでしかない。この種の言い回しが俳壇に流行るとすれば、それは作者でなく、褒める人の責任である。次回以降の選考委員の皆様には、俳壇に流布されがちな「一見上手そうな句」を安易に褒めないことを、強くお願いする。

なるほどね。

私が過去にこのブログで書いていた主張

〈選び手(選考委員)とはなにか。選び手の仕事はただ優れた、それでいて自分好みの作品を選ぶ? そう思う者がいるか? そのような消極的な態度であるから、俳句にはもう、未来がない! 選び手は、選び手であるからこそ、今、ここに、この時代に、この俳句界にとって、価値のある作品、または、俳句界を脅かす作品を、主体的に積極的に選び取ることが必要ではないのか。中内のように、作品に対面して赤面してしまうのでは、話にならない! また、これは中内のことではないが、自分の身内を優遇して点を加えたり、受賞させたり、恩があるから、関係があるから、そういう人間的ないやらしい理由で、賞を与えたりすること。そういうのは、その賞が発表されたときは大いに盛り上がるが、その裏で、多くの、本来賞を与えるべきだったすぐれた才能を虐殺しているのと同じだろうが!

 

そのような選び手の失敗を指摘し、再び同じ悲劇を繰り返させないためにこそ、選考委員に対する糾弾は、それが妥当なものであれば、選考委員の地位や権力や年齢におびえることなく、俳句界全体で肯定していかなければならない。それが、私の主張である。

 

中内はもちろん、中内以外の、選び手の仕事を担う俳人に、私は、もはや祈るような気持ちで、頼みたい。選び手は、書き手よりも重い。選び手の選択が、俳句が面白くなるのを5年も10年も遠ざけることになる。それを今一度、自覚してほしい。俳句界全体というものを、責任をもって考えてほしい。俳句を書くのは遊びであってもいいが、俳句を選ぶのは遊びであってはならない。それは人の人生に、俳句界の未来に、深くかかわってくる。人生の余暇、死ぬまでの暇つぶし、道楽、小遣い稼ぎ、その延長で俳句賞の選考に関わるのであれば、私は絶対に許さない。血の付いた短刀に狙われている、そういう気持ちで、選考に挑んでもらいたい。俳句を愛しているのなら、選考に命を賭けなさい。〉

レッドフェイス あるいは 第九回北斗賞がもたらす予期せぬ奇跡

 

に随分似ていると思ったが、なにが〈強くお願いする〉なのだろうか。この発言がなにかの皮肉や冗談でないならば、私は本当に岸本尚毅の知性を疑う。岸本は数々の賞の選考委員を担当してきたが、管見の及ぶ限りでは、〈「気の利いた言い回し」〉の作品、〈「一見上手そうな句」〉だらけの連作をしか評価してこなかったではないか。おかげで、今の若手俳人、特に10代から20代の、新人賞などで受賞されたり、(どういうコネがあるのか知らんが)注目されている俳人には〈「気の利いた言い回し」〉以上の個性がない。若手の間に悪い風邪を流行らせた病原体がほかならぬ岸本自身であるのに、風邪にかかった若手の作品を〈底の浅い面白さ〉として批判するのは奇妙だ。つまらない作品を連発する若手やそれを評価するチンケな選考委員を叩く前に、岸本は私の作品でも呼んで、まずは自己の俳句観を「治療」してはいかがだろうか。

とはいえ、選考委員のあるべき態度について言及した岸本の提言は、少なくともその部分においては千金に値する。選考委員が〈俳壇に流布されがちな「一見上手そうな句」を安易に褒めない〉べきであるというのは、(これもまあ以前から私が指摘してきたことであるが、)私も周知徹底されるべきであるとおもう。〈褒める人〉がバカだから俳句珍空間が終わらんのだ。そのことに気がつかないチンパンジーには俳句賞の選考委員をやってもらいたくない。第九回北斗賞(とその後の中内亮玄―高田獄舎間において発生した「食糞脅迫騒動」)のような惨劇は二度と繰り返してはならない。

 

ところで、「選考委員の言葉」の岸本発言でぶっ叩かれている『尺蠖の道』(いかにも俳壇で権力を持っている高齢者ども向けの句集のタイトルといった感じである)の堀切克洋だが、先日発売された2019年版の『俳誌要覧』に「つまずいてなんぼ」というタイトルで去年の俳句賞受賞作を読んでいる。堀切はそのなかで、20代から40代の俳句賞応募者が試行錯誤していることを述べた後、賞が〈本来、そのような「つまずき」に対して付与されるものだろう。涼しい顔をして小器用な俳句を詠むスマートさは、賞とは本質的に無縁である〉と語る。

岸本にしても堀切にしても私の二番煎じにすぎず、私としては、何をいまさら、と思うが、それは置いておこう。面白いのは、ここで謎の上から目線で賞についてかたる堀切が(さきほど述べた岸本発言において)ブーメランをくらっているという事態である。これには一番煎じの私も茶を吹きださずにはいられない。自分の作品の性質を自覚していない人間が他者の作品を読むことができるのだろうかと疑問に思うが、それとこれとは別なのかもしれない。

岸本発言に現れているように、そもそも堀切自身が〈「気の利いた言い回し」〉や〈「一見上手そうな句」〉で選考委員の老人をだまして出世してきたくせに、いざ自分が評論を書くことになったらそのような作品を評価してきた賞について不満をもらす、お説教をかます。堀切のそのような姿は実に〈小器用〉で〈スマート〉だ。

「つまずいてなんぼ」の最後で、堀切は最初に述べたことを別の言葉で再び語りだす。

〈優れた作品は「傷が少ない」から賞を受けるのではない。むしろ、「傷=つまずき」を隠しもっているからこそ、受賞作は受賞作たりうる。〉といい、取り上げた作品について〈さて、右に見てきた作品は、本当に祝福すべき「傷」をもっているだろうか。考えてみていただきたい。〉という。そもそも堀切自身が、自分の作品についてそのようなことを考えたか、どうか。このままでは説得力は皆無である。

 というか、堀切はこの文章を本気で書いているのだろうか。堀切が本気であのように考えているのであれば、なにか具体的な行動を起こしてほしい。今回の文章に書いたことをもっと積極的に訴えていくとか。無名無冠で干されまくっている私と違ってできることは多いだろう。お前は愛され、甘やかされてているんだから。働け。

 

おまけ

『俳誌要覧』の感想まとめ

・60ページに及ぶ「「俳句四季」創刊35周年に寄せて」は無価値な美辞麗句の集積にすぎないので読んでいて金と時間を無駄にした気持ちになった。こういうのは別冊として付録で出しとけばいいものを。


・橋本直の評論回顧「俳句とアニミズム」は精緻かつ刺激的な文章であり、有益だと思う。「アニミズム」について漠然とした考えを持っている人は一読するとよいと思う。


・田島健一(田島健一式具体的な誰かではない)の「俳句の現代的課題について」で田島(田島健一式具体的な誰かではない)は〈俳句の現代的課題は、まさにこの「俳句」という概念のあやうさに他ならない。客観的で丁度よい俳句の真理を名指すことができない状況のなかで、俳句の固有性を有らしめる個々の書き手の〈勇気〉が問われている〉と綺麗ごとを言うが、立命館大学准教授の「哲学者」千葉雅也によるTwitter上の発言〈57557577というのも、恥ずかしさと闘うための装置である。〉という〈丁度よい俳句の真理〉に即座に飛びついただけでなく、その後の千葉の発言をも肯定し続けたところが田島(田島健一式具体的な誰かではない)の本質ではないかと思われる。田島(田島(田島(田島(田島(田島健一式具体的な誰かではない)健一式具体的な誰かではない)健一式具体的な誰かではない)健一式具体的な誰かではない)健一式具体的な誰かではない)に評論回顧の執筆を依頼した編集部の判断に疑問をもった。


・玉城司の「喪失から創造へ」について、こういう単なる羅列はつまらないやめてもらいたい。金を返してほしい気持ちになる。


・年代別自選句一覧の1ページ目の失礼極まりないミスを編集部は即座に修正せよ。


・私は、年代別自選句一覧に金子兜太の追悼句を載せている作家全員を愚か者とみなす。読者は追悼句を読みたくて要覧を買うわけではない。


・内容に対して値段が高すぎる。要覧を買うぶんの金があれば何杯ラーメンが食えると思っているのか。この出版社の人間はラーメンを食べたことがあるのか疑問である。参考のため、ウィキペディアの「ラーメン」のページのリンクを貼っておく。

 「ラーメン」



[i] http://furansudo.com/award/2019/2019.html


  • Comment:0

苦痛論


1506076402790.jpg 

苦痛論

 

[http://aozora.binb.jp/reader/core/bib_image/img_transparent.gifhttp://aozora.binb.jp/reader/core/bib_image/img_transparent.gif肉体の死は何でもない。恐るべきは霊魂の死である。人が教えらえたる信条のままに執着し、言わせらるるごとく言い、させらるるごとくふるまい、型から鋳出した人形のごとく形式的に生活の安を偸んで、一切の自立自信、自化自発を失う時、すなわちこれ霊魂の死である。我らは生きねばならぬ。生きるために謀叛しなければならぬ。]

徳富蘆花「謀叛論」(草稿)

 




 先日、ある有名歌人の驚くべきツイートを見た。

 

 以下

 

鳥居 @torii0515 4月29

孤児院で育ったことやホームレス経験がある点に注目が集まりやすいのですが 明治時代から代々医者の家系の天皇家とも交流のあった 名家の生まれであることも、ここに補足しておきます。

 

 以上がそのツイートである。

 

 「補足しておきます」? 補足にしては随分と重たい内容ではないだろうか。

天皇家とも交流のあった」「名家の生まれ」。

私はこれらの発言に非常に苦しいものを感じた。

 天皇家と繋がりがあり、それゆえに名家であり、自分はその生まれである……

確かに、どこでも耳にするような言葉である。そしてそのような言葉は常に無自覚に発せられている。差別、階級、前近代的な意識といったことの、問題性についての、無自覚。

鳥居氏が子どもなら一笑に付すこともできた。しかし彼女はそうではない。私は彼女ほどの有名歌人が先に挙げた問題について「無垢」であることを苦しく感じる。

 

象徴天皇はまさに「象徴」であるからこそ、戦前戦中とはまた違う形で力をもっている。軍事力とかではなく、我々日本人ひとりひとりの内部に、絶対的な権威として、住み着き、離れない、そういう力である。

先のツイートで鳥居氏は無意識に、無垢に、純粋に、天皇の権威を認めた。それは天皇の物質的・外形的権力に屈服しているというよりも、自らの内側にいる天皇という存在に服従しているということにすぎない。そこまでは、良いのだ。個人的に、天皇に敬意を持っていることは、個人の内部に留まるのなら、それは個人の自由だ。私とて、脳内の天皇(とそれにたいする論理的あるいは感情的敬意)を捨て去ることは難しい。

しかし鳥居氏が脳内の、自分の内側の天皇への尊重に留まらず、「名家の生まれ」なるものをそこから引き出したことを私は嫌悪し、警戒する。理由は二つ。先に述べたように、差別等の社会的諸課題に無自覚であることが一つ。もう一つは鳥居氏自身が天皇の権威を用いて出自による差別を生産しているということである

 

鳥居氏を責めるのはここまでにしておく。

 

 

5月1日になった。

来年5月に平成が終わり、新しい元号が始まる。新元号の元年中に子供を授かろうと「元年ベビー」への関心が高まっている。[i]

 なるほど、とすれば、年内に多数の子どもが生まれるだろう。しかし、そこに、生まれてくる子供に対する慈しみや思いやりに優先するものがあると指摘したい。優先するものとは何か? 天皇ファミリーの事情である。

少なくとも明治以降、改元が天皇ファミリーの事情によって行われている以上、それに合わせて記念に子どもを出産するということが、天皇家の事情に合わせた都合以外のなんであるのか、あるいは、もっとひどく考えれば、天皇家の事情に合わせて人の生命を遊ぶ(弄ぶ、ではなく!)行為以外のなんであるのか。私にはわからない。


改元のなにがありがたいのか、と反体制知識人風に私は嘆かない。そんなことの答えはとっくに出ている。鳥居氏や私の例でわかるように、我々の内部に天皇が住んでいるからである。

 

令和!令和! 渋谷に集まった大衆は新元号を寿ぎ、アナウンサーは「令和、新しい時代の始まりです!」という。必然である。改元とともに子どもを産むということもまた、必然である。なにも驚くことはない。

俳句界には新元号の始まりと同時に作品を発表する者、個人誌の告知をする者がおり、現代俳句協会は「令和」の漢字一字か二字を詠み込んだ俳句を募集している。

必然である。我々は新元号を歓迎し、それが「旧時代」から自らを解き放つ区切りであると認識し、天皇に敬意を持つ。まったくもって必然である。内部に存在する天皇に従ったまでのことである。


しかし、宣言したい。私は苦痛ぬきに自己の内部の天皇を存在させることができない。内部の天皇を肯定することによって、なにかを見失いそうになること―その、なにか、とは、平成という時代に感じていた敗北感・虚無感や、平等についての意識や、時代のなかで苦しみ自ら命を絶った同年代の人の顔の記憶などであると思う―、そのなにかを見失いそうになることが私に苦痛をもたらす。したがって、元号が変わったことを寿ぐ一連の空気にノることはできない。バイブスも上がらない。

では内部の天皇を追い払えばいいではないか、という意見があろう。私もそう思うときがあるが、安易にそうすることは、安易に天皇を肯定することと何が違うのか。気軽に自分のなかから、あるものを追い払ったり、受け入れたりする、そういう人間を私は信頼しないし、なろうとも思わない。

苦痛を感じながら、内部に天皇をかかえた自分を含めた日本人の「必然」を現実のものとして受け止めてゆく。苦痛を感じながらやっていくしかないのだ。


日本が真の平等意識を獲得するまで「新たな時代」というものはあり得ない。「令和」はラベルの張替えにすぎない。「令和」の字を詠み込んだ俳句だと?? 現代俳句協会は「尊王俳句協会」と団体名を改めるがよかろうと思う。もちろんその場合、「金子兜太」という文字と彼の写真をホームページ上からすべて削除せよ。

「旧時代」の負を直視すべきである。「旧時代」の敗北を直視すべきである。なにも終わっておらず、なにも始まってはいない。

私は苦痛をもって「令和」でも創作を続ける。



[i] 「元年ベビー」ブーム到来? 新元号に向け妊活始まるhttps://www.nikkei.com/article/DGXMZO33719040S8A800C1000000/


  • Comment:0

平成の終わりと30~40代の有名若手俳人たちの未来

1506076402790.jpg

 

平成の終わりと30~40代の有名若手俳人たちの未来

 

 

〈否定のなかから湧きあがる新生の肯定のなかに、「終末の日」の豊饒なる虚無のなかに、希望に溢れた絶望のなかに、われらの全てを激しく賭けようではないか。〉

(荒正人「終末の日」『第二の青春・負け犬』冨山房百科文庫)

 

 

 

数か月ほど前から、ある感情を抱きつづけてきた。その感情は、おなじみ「天の川島宇宙」や「ネオ・ナツ」への批判的コメントをSNSでせっせと書いているときに去来するものだ。

それは、彼ら(天の川島宇宙、ネオ・ナツの俳人)をもう批判する必要がないのではないか、という疑いとほんの少しの淋しさである。

 批判しつくした結果そのような感情が湧いてきた、ということではないと思う。私程度の知力では徹底して批判しつくすなどということはできない。彼らを批判し続ける必要があるという気持ちもまだ残っている。しかし、ではなぜ、このような感情が湧いてきたのだろうか。

 

思うに、現代俳句のところどころで注目されてきた彼ら30代、40代の若手俳人はすでに、「死んでしまった」のではないだろうか。

 

そもそも天の川島宇宙の中心人物であり、私が「ネオ・ナツ」の一人とした佐藤文香が、『そんなことよりキスだった』という「小説」を出版し、作家としての限界を露呈した。(ちなみに、現在アマゾンにはこの本の「中古」が大量に出品されている。発売されてまだ半年も経っていないのにかかわらず。)高山れおなが西鶴を持ち出して奇妙な言葉でこの本にコメントを寄せたが、この本に対する天の川島宇宙俳人のコメントは、私の知る限り、どれも奇妙なものだった。どうも無理があるのだ。褒めることもできず、かといって貶すこともできない、という状況から生み出されるようなコメントなのである。天の川島宇宙の俳人も佐藤の限界を隠しきれなくなってきているのである。

私は想像せずにはいられない。もし佐藤が『そんキス』を書かなかったら、と。佐藤があの本に費やした熱量を俳句のみに向けていたら、おそらく限界を迎えるのは私の方だっただろう。しかし、私は運がよかった。

 

 佐藤の師にあたり、「ネオ・ナツ」として以前このブログで批判した北大路翼は、先月Twitterや私の質問箱で発生した、屍派のメンバー数名による、私に対する、拉致や暴行をほのめかす発言などによる脅迫行為を黙認するどころかこれを唆すような発言を行った。これはのちに、私と北大路双方が歩み寄り対話し、相互に理解を深めた結果、北大路が屍派の代表として責任をもち、屍派メンバーのゆきすぎた言動について抑制するを持つことを約束したことで終息した(念のため明言するが、この件はすでに解決したことであり、北大路の決断を私は敬意をもって肯定し、北大路の協力に感謝する。この件によって北大路が脅迫行為を教唆するような反社会的な人物ではないのが明らかになったこと言うまでもない)。

 佐藤にしても北大路にしても、出版社・メディアを通じて得た影響力を自分自身の力であると錯覚し、また、相互に擁護しあい身内であればなにをしても肯定する・される島宇宙的空間に淫したせいで、本来の才能や人格からブレにブレてしまい、間違った判断をしたのではないかと思われる。この両者は、私の批判ではびくともしない強固な地位を築いて平成後期の現代俳句をリードしたが、結果として自ら築きあげてきたものを自らの手で崩壊させたのである。

 

「ネオ・ナツ」として名前を挙げている人物にはほかに、「海原」同人の中内亮玄がいる。彼についての(とくに彼の選考委員としての資質に対する)私の批判は過去のブログに書いているのでここでは繰り返さないが、最近、新しい動きがあった。彼が立ち上げた結社「月鳴」のホームページがなんのアナウンスもなく急に消滅したのである(4月27日現在においても状況は変わらず)。「月鳴」は結社誌を出していないからホームページが唯一の拠点といってよいだろう。入会などを受け付ける窓口ともなっていたはずだ。また、主宰中内の講演の告知も掲載されていたし、中内自身が「月鳴」の立ち上げについて、その決意や、活動が様々な俳人に応援されていることをページ上で大々的に語ってもいた。

 一体何が起こったのだろうか。ページを更新しているにしても、ずいぶん長いしその告知もない。「月鳴」は創立まもなく消滅してしまったのだろうか。

 

天の川島宇宙俳人、田島健一(田島健一式具体的な誰かではない)についても述べておこう。先日、立命館大学准教授の「哲学者」千葉雅也がTwitter上で〈57557577というのも、恥ずかしさと闘うための装置である。〉と発言したことについて、詩歌関係者のアカウントを中心にTwitterが炎上した。

私の如き下等知能生物が千葉氏の真意を理解することは不可能だが、俳句・短歌を書くものの一人として、定型を〈恥ずかしさと闘うための装置である〉という千葉氏の見解については、それを賛同するとか否定するとか以前に、意表を突かれた。  

千葉氏はこの発言の後、詩歌関係者の批判に対して正面から答えることも、具体的な作品を挙げて説明することもしていない。もちろん、千葉氏にその義務はない。所詮SNSであるし、言いっぱなしでこれについてもう言及しないつもりならそうすれば良いと思うが、しかし、千葉氏がもしそういう態度をとった場合、千葉氏の権威にひれ伏す関係性にない私個人としては、千葉氏の発言を単なる思いつき以上のものとして扱うことはできない。

そのような私の判断とは違い、千葉氏の発言を引用して〈そう思います。個人的には「闘う」というより、恥ずかしさから「守る」という感じかと。〉〈千葉雅也氏のツイートに対する俳句側からの反応をTLで見ていて、得も言われぬ戸惑いと、強い落胆を感じている。薄暗い気持ちで連休が始まってしまった〉と迅速かつ積極的に受け入れたのが田島である。

私には疑問である。千葉の30字ほどの文字数で語られた不透明な定型観を即座に受容し、〈俳句側からの反応〉に戸惑いと落胆を感じた田島はそもそも、千葉の発言の真意をどれほど理解しているのか。千葉自身が具体的な作品も挙げず、明確に語ろうとせず、他者との議論に応じようともせず、したがって千葉氏以外の誰も踏み込めないことをなぜ短時間で肯定できたのだろうか。感情的に千葉の発言を承認しただけではないのだろうか。論理ではなく、感情によって肯定しているだけであるならば、大多数の俳人にとって戸惑いと落胆の対象となるのは田島本人である。また、炎上しているのにもかかわらず千葉の発言を肯定しつづけ、他の俳人の態度に落胆すらしているのに、千葉の意図をちっとも代弁しようともしないのはどうも奇妙である。いったいどのような回路で田島が千葉の発言を肯定したのか具体的には何も明らかになっていない。〈俳句側〉としては田島が単に感情的かつ安易に千葉の思いつきを受け入れたようにしか見えない。そしてそこに何かしらの思考は存在しない。

 

佐藤文香、北大路翼、中内亮玄、田島健一、彼らは平成を通じて注目されてきた若手俳人だった。しかしこの四者の活動にはそれぞれ、陰りが見える。この四者は共通して、どうしたいとか、何がしたいとか、どうありたいとか、作家としての立場が不透明である。その時々で、メディアに顔を出したり、本を出したり、結社を作ったり、身内を擁護したり、自分に近い他者の俳句観・定型観を精査することなく即座に肯定して〈俳句側〉の姿を嘆いたり。どうも場当たり的なのである。場当たり的なスタイルでは、注目されることは多くなるだろうが、何も積み重ねることができない。この四人の作家はそれぞれ、優れた作品を残していることは疑いようがない。しかしそれは過去の話である。現在、私はもはやこの四者に俳人としての可能性を感じとることはできない。どうも見えないのだ、彼らに積み重なっているものが。

時代とはこのようにして移り変わってゆくものか、と思う。自身の立場や驕った態度を見つめなおし、自分自身のものの見方を磨きながら、地道に書く作業を続けてゆくということしか、彼らが再生する道はないのではないかと思われる。


まあどうであれ、無名無冠の私には関係のない話だ。

  • Comment:0

〈地方〉俳人はこのようにして根源に至れ(+「塔」3月号、「we」第7号作品鑑賞のおまけつき)

1506076402790.jpg


〈地方〉俳人はこのようにして根源に至れ(+「塔」3月号、「we」第7号作品鑑賞)

 


〈どういうふうにして、コムプレックスを追放すべきであるか。いはば精神分析療法である。それはコムプレックスの根源をさぐりだすことである。文学的にいへば、むしろこれまでの劣等感に徹してみることである。優越をもとめるといふ代償作用を排して、ひとつこのコムプレックスに最後のところまで身を委ねてみることだ。生半可な文化的優越への逃避など当分希はぬことだ。〉

(荒正人「大人国・小人国」『第二の青春・負け犬』冨山房百科文庫)

 


引用した部分はもちろん、戦後の日本を意識して語られたものだが、〈地方〉俳人どもの現状を考えるとき、この文章のなかに教訓を見出さずにはいられない。

 

先日、北海道文学館とかいうところで〈地方〉俳人のシンポジウムがあるということで、このブログにおいて〈地方〉俳人批判を展開した私は、これに行くべきではないという思いはあったが、逆に、それを見届ける責任をこそ持たねばならないだろうとも思い、出席した。会場のほとんどは高齢者であり、若者はほとんどいない。この状況にすでにシンポジウムのテーマ「北海道の俳句~どこへ行くのか」の答えが出ていると思ったが、私は黙って話を聞いていた。


参加者は4人、松王かをり、瀬戸優理子、鈴木牛後、安田豆作。みな道内の俳人であり、どうでもいいことだがそれぞれ受賞歴がある。

松王は「北海道俳句」として風土性が評価されてきた経緯についてかたり、現代においては生活の面での風土は均一化されていると結論づける。

瀬戸はまず、五十嵐秀彦が週刊俳句2019年1月29日号「週刊俳句時評57」で語った、俳句の空間に持ち込まれているメディアによる地方・中央の区別を取り上げる。そこから、メディアが用意した二項対立ではなく、いま・ここに立脚した俳句の可能性を探る。

鈴木は「春遠し」「夏の雪」などの、自己の生活に立脚した季語を用いて句を作ってきたことを語り、深谷雄大の季語観を取り上げて、均質化から抜け出すような北海道の俳句の可能性について語る。

安田はテーマとあまり関係ないことをくどくどと述べるばかりであったが、北海道の俳句と人間諷詠の関係を示してはいた。そして今後の北海道の俳句がアイヌ語の導入、または川柳化の道へ進むとの見解を述べた。

 

まず、ここまでの私の感想を述べると、松王や瀬戸の主張には頷けるものが多かったし、安易に〈北海道の自然〉を取り上げるのではなく、自己の生活に立脚した季語を使うことを語った鈴木の態度は頼もしかった。この三者の語ることはある程度肯定できたのだが、安田の認識は理解できなかった。とくにアイヌ語の導入は、アイヌ語が現在どれほど道民に理解・受容されているか、そこに〈和人〉の〈消費〉の感覚はないのかが問われなければ、北海道の俳人によってアイヌ文化が俳壇での出世のために使用されることになりかねない。それはかつて和人がアイヌ人を虐殺したこととどれほど違うのか。安田はそれについて無自覚なまま、アイヌ文化の利用を示唆していたように思える。恥を知れといいたい。

 

 

その後の座談会では、五十嵐秀彦が北海道らしい気候を書くことが風土性ではないこと、むしろ内省的・主観的であることが北海道の俳句の特色であると述べる。

それを受けて瀬戸は北海道の俳句がどれだけ中央のメディアに出てこれるか、北海道の俳句のような句が詠まれたいと思われるかを問題視する。

五十嵐はさらにネットの可能性について、ネットは地域性を乗り越える可能性をもつものではなく、ネット自体が中央化されていると述べる。

鈴木は「東京の人」のほうが「声が大きい」と述べ、それに合わせないことがイタック(北海道の俳句団体)のやり方であるとコメント。

五十嵐はまた、鈴木の作品について、酪農家が俳句を作っていることが強調されていると言う。それに対して鈴木は、「僕もそれを利用している」が、それだけでないものを書きたいと語る。

 

ここでコメンテーターの〈地方〉俳人的認識が露呈する。瀬戸の発言にあらわれた、中央のメディアへの依存は言うまでもない。五十嵐はネットが中央化するというが、それは週刊俳句みたいなのに安易に接近したからだろう。自身のブログで我慢強く延々と言論活動を展開すれば、五十嵐自身だけでなくそれを読んだ人々にも、中央の流れとは別のものが見えてくる可能性があった。五十嵐は新聞や総合誌にばかり書いているが、そういう小遣い稼ぎに執心しているからネットの可能性が限られて見えるのだ。鈴木が言う、〈中央〉の人々の声の大きさを封じ込める可能性もまた、ネットにあると言えないだろうか。

また、鈴木の「僕もそれを利用している」という発言には呆れてしまったが、これはまさに〈地方〉俳人の悲しき実態そのものでもある。〈中央〉の人間関係依存、〈中央〉のメディア依存、〈中央〉の言説依存。鈴木発言が浮かび上がらせるのは、そういう依存ゆえに〈地方〉を強調したり利用せざるをえない〈地方〉俳人の愚である。そのような愚を脱却しないかぎりいつまでたっても状況は変わらない。

無名無冠で実力のない私にとっては鈴木がなぜ〈中央〉による、鈴木作品への「酪農家の俳句」観を「利用」したのかがわからない。〈中央〉の賞の受賞を経て権力的立場を獲得した鈴木の事情によるところもあるだろうが、鈴木自身が〈中央〉の言説を利用するのではなく、勇気をもってこれを跳ねのけていくところからしか「北海道の俳句」は発展しないだろう。どこぞの若手俳人と違い、あらゆるコネを用いて出版社やテレビ局から仕事をもらって「俳句で食っていく」わけではないのだから、それ(「酪農家の俳句」観のような中央の一方的で不愉快な言説を跳ねのけること)は可能なはずだ。

 


質疑では、自然に注目するだけでなく、風土の文化的側面、つまり、もっと北海道の150年という歴史性に注目すべきだと言う意見や北海道新聞社と協力して北海道の言葉が季語として採用されるように活動を展開しろとコメンテーターを熱心に叱咤する発言が出たが、いずれも質疑と言えるレベルのものではなく、自己の主張を単純にコメンテーターにぶつけただけであり、その内容も無内容どころか、噴飯ものですらあり、この愚鈍さや滑稽さが北海道の俳句の可能性では?wと嘲笑したくなった。前者には北海道命名以前の〈蝦夷地〉などに関する意識が欠けている。後者の発言に込められた、俳壇での権威獲得を目的とした政治性のクソさは言うまでもない。

このレベルなのである。コメンテーターは、それぞれ真剣に自分の頭で考えているけれども、聴衆はこのレベルなのである。コメンテーターには、まずは、今回のイベントを「いい議論ができた」と片付けて〈逃避〉してしまうことなく、自分たちの言葉が「北海道の俳句」の担い手である聴衆を感化できなかった、あるいは自分たちの周囲にはあれだけ語っても感化されないほど愚かな「北海道の」俳人がいるということを痛感することを求めたい。質疑における聴衆のこれらの発言に対して、コメンテーターはあいまいに受け流すだけだったが、本当にそれだけでよかっただろうか。私としては、徹底的に議論するところが見たかった。


が、もうどうでもいい。あんたらは佐藤文香を批判することすらできんうえに、手を叩いて歓迎すらしてしまうのだから。

 

 

 

おまけ 「塔」3月号、「We」第7号の作品を読む

 

潑剌と馬洗ふにはあらねども夜明けしづかに自転車を拭く

佐竹永衣

(「塔」2019年3月号、前田康子選 作品2)

いにしえの旅は馬に、21世紀の旅は自転車によって担われる。決意をもった人物の旅立ちをこの歌の背景に見た。「あらねども」というけれども、「馬洗ふ」という言葉は「自転車」を単なる消費するためのモノではなく、旅を共にする愛機であるように見せてくれる。また、「しづかに」はかえって、作中主体の心情を強く浮かび上がらせる。険しい道のりを予想するからこそ、「しづかに」自転車を拭く必要があるのだ。


あらさう、と言ひかへす時水鳥のごときものわが声を過りぬ

濱松哲朗

(同、真中朋久選 作品2)

濱松は「塔」で時評を書いている人物だが、私は「塔」が届くと彼の時評を真っ先に読んでいる。非常にエキサイティングな語りに気概と知性がにじみ出ており、毎回、なるほど、そのような見方もあるか、と思わせられる。どこぞの無名無冠のクソブログとは大違いである。

 ところで、この歌だが、「あらさう」というひらがなたった四文字からなる返事からは、作中主体とその話相手との距離感があらわされている。また、そのあと「水鳥のごときもの」が「わが声を過りぬ」と続けられることにより、その距離感がより確かなものになって読者に伝わるようになっている。

問題は、この歌に描かれた「水鳥のごときもの」が「あらさう」の返事とともにどこからどこへ飛び立ったのかである。それを想像するのは読者にゆだねられているが、私としては、水鳥が湿地から空へ飛びあがるように、じめじめとしたところから自由な空間へ解き放たれているように思う。作中主体は「あらさう」ということにより、自分で、自分に、羽ばたくために必要な力をあたえているのではないか。そう考えると「あらさう」というひらがな四文字の返事は表面的には軽いが、これに込められたものは軽くはない。

ひめはじめ耳のまろみの奥の沖

斎藤秀雄

(「We」第7号、連作「戦前的愛をめぐって」)

斎藤秀雄の実力は、この連作の「鹿眠る革命の夢をみながら」や「鶏頭の枯れて証拠のない法廷」といった駄句に反映されているとは思わない。むしろ彼のそれは上に掲げた「ひめはじめ」の句や「胃に肉を詰むるからくり烏瓜」のような句に反映されていると思う。リズムにのせてイメージを紡ぐ。が、しかしそれはオーケストラの音楽というより小学生が休み時間にリコーダーで吹くラーメン屋のチャルメラに近いものである。上五から下五にかけてどんどん自由度を増すのが斎藤の句のおもしろさだと思う。もちろん自由が過ぎればガキの手淫になるが、この連作に現れている踏みとどまり方をみるに、斎藤自身それは自覚しているだろうからここでくどくど言うつもりはない。

「ひめはじめ」の句。ひめはじめ→耳→まろみ→奥の沖と言葉が転がるように展開する。展開するとともに、自由度も増す。しかし破綻しない。奇妙な羅列にはならない。一貫した柔らかさがある。さらに、下五で「奥の沖」に至ることにより上五の「ひめはじめ」のイメージがさらに豊かなものになっている。一句の読後感は心地よいが、それは読者にとって危険なもので、斎藤の手品を理解するためには奴の句を冷静に、なんども、繰り返して読まなければならない。まったく面倒だ。

 

母病めば男めそめそ春干潟

宮中康雄

(同、連作「竜の玉」)

私は金子兜太の『蜿蜿』を気に入っており、これを手本にして句を作ることもあるが、このなかにある〈三日月がめそめそといる米の飯〉は、駄句だとは思わないし、むしろ見事なテクニックだと思うが、気に入らない。まず「米の飯」という表現が気に入らないし、「三日月」がつまらない。なにより「めそめそといる」という表現にこの俳人の自負が見え透いていて、(私は金子兜太に心酔するほど蒙昧ではないこともあり、)こんなものを評価してたまるかという気持ちになる。

私にとっては宮中のこの句のほうが兜太のあれよりはよっぽどマシで、好ましい。無駄のない上五「母病めば」のあとの「男」の「めそめそ」は、まさに「めそめそ」と言うほかない。その必然性が好ましいのである。

男は、女は、ということはあまり言いたくないのだが、自分の考えをあえて言うと、ほとんどの男は、母親が病気になったとき「めそめそ」より強い感情を持つことはないだろうと思う。「めそめそ」より強い感情は母の死のためこそ準備しておかなければならないからである。普段虐待でもされていないかぎり、母親が病気になったとき、運命を呪わざるを得ないが、一方で、合理的にそれを受け入れなければ自分の人生をやっていられない。そういうとき「めそめそ」は許され、「めそめそ」以上は許されないのではないかと思う。

季語「春干潟」が適切かどうかは読めばわかるだろうから言及しない。



 


  • Comment:0

商売上手な「ネオ・ナツ」たち あるいは 俳人どもによる信者獲得競争の狂乱がもたらす予期せぬ地獄

1506076402790.jpg

[商売上手な「ネオ・ナツ」たち あるいは 俳人どもによる信者獲得競争の狂乱がもたらす予期せぬ地獄]

〈滅亡のなかにあつて滅亡を知らざるもの、「終末の日」にあつて終末を見ざるもの、このやうなひとびとの狂乱の群をはなれて、ひとり燈の下に坐するとき、宇宙論的な虚無の感覚は、わたくしの皮膚のうへにしづかに露を結ぶのである。〉

(荒正人「終末の日」『第二の青春・負け犬』冨山房百科文庫)

 滅亡のなかにあって滅亡を知らざるもの、「終末の日」にあって終末を見ざるもの。荒正人が直面していたものはさておき、この文章を読んだときに頭に浮かぶのは、何人かの俳人の、極めて健康的な印象をこちらに与えるピンク色の形相である。

 

先週、「風土」への幼児退行をみせる北海道俳句協会会長の源鬼彦ら、〈地方〉俳人とその奴隷根性を批判したが、視点を地方からさらに、「俳句珍空間」と呼ぶべき状況にある、俳句界全体に移すと、そこはそこで、より深刻な問題(これに比べれば、所詮〈地方〉俳人の問題など、連中の無知蒙昧ゆえに成立するものであって、源鬼彦がしっかり現代俳句と俳句珍空間の問題についてお勉強をすれば一応の解決の目途がたつお話である。)をいくつも胚胎している。今回はその一つを取り上げたい。あまりにも商売上手な俳人たちのことを。

 

先日、面白い記事を見つけた。

 

ブログ「玖足手帳」で主に富野由悠季の作品の分析を書いているグダ氏が、俳人夏井いつきが「先生」として参加するテレビ番組プレバトの構造について言及している。

 

以下、「玖足手帳」の記事、「テレビヒットの法則!Gレコのために1」から引用する。


 ・

〈この番組が何を見せたいのかと言うのは時間配分やCMのタイミングなどを見れば一目瞭然で、ランキングが落ちて才能無しと馬鹿にされるタレントを嘲笑したり、あるいは名人の梅沢富雄などの失言や暴言を視聴者が楽しむものである。別に俳句をきちんと収めようとか、自分で俳句をきちんと考えて行こう、と言う教養番組ではない。単にランク付けされるタレントを見て嘲笑し、自分のゴミのような愚民の人生を紛らわす、実生活で会社や社会に低ランクの烙印を押されているごみのような労働者がランク付けされるタレントを仮初めのおもちゃにして憂さ晴らしをするだけの低俗な番組である。〉

〈重要なのはこのショーの演出において、レイヤーが分断されていることである。これは他の多くのテレビバラエティーにも言えることである。〉

〈俳句の先生は別のスタジオの部屋にいて、先生を呼べるのは司会者であり同時に道化である浜田雅功だけなのである。俳句の生徒と先生は分断されているのである。

 江戸時代の句会のように、サークルのメンバーが平等に同じ部屋にいて作品を見せ合い、顔を突き合わせて意見交換して俳句や技を磨くのとは違うのである。レイヤーが断絶しているのである。

 そして毒舌先生は安全な別室から毒舌の寸評を言い、才能がないと言われた人の顔のリアクションがワイプで映って視聴者を嗤わせる。

 また、その嗤いを盛り上げるために、声優の銀河万丈がそれっぽい声を出して俳句の先生の理論の正しさや、失敗した人の愚かさを声色で表現する。〉

 ゴールデンタイムに放送される低俗な番組「プレバト」の成功によって、夏井いつきはおそらく、日本で最も有名な俳人になった。去年の年末にはついに紅白歌合戦に出現し、金を稼いだ。しかし、このようにメディアに頻繁に出現する夏井いつきの句や句集について知っている人は、俳句関係者を除けばほとんどいないだろう。グダ氏は番組内にある「断絶」の構造を的確に見抜いたが、夏井いつき本人に注目すると、そこには(テレビタレントとして俳句界の外部に信者を獲得する、)商売人夏井いつきと作家としての夏井いつきという、また別の「断絶」も存在するのである。

それは、

Aタレントとしての夏井いつき

B作家としての夏井いつき

というような断絶でありまた、これに対応して、視聴者・読者も

A´主にキャラクターとして夏井いつきを消費する層

B´主に俳句の書き手として夏井いつきを消費する層

に分断される。


当たり前のことだが、俳人がある程度メディアに露出すればこのような「断絶」あるいは「分断」は避けられない。わたしはそのこと自体を批判するつもりはない。そこに本当の問題はないように思われる。

 

では、このような「断絶」がもたらす本当の問題とは何か。

それは、俳人にとって

1そのような「断絶」が、その俳人の作句能力や文学に携わる覚悟を問う視点をどこまでも遠ざけるということ(つまり、メディアの力で、「断絶」を作り出し、俳句界の外側に多数のA´の信者を獲得すれば、それが安全地帯となり、知名度を盾にして都合よくB´の層の批判からトンズラできるということ)

と、

(2)俳句界の成功者夏井をお手本にするようにして、そのような「断絶」、つまり、タレントとして肯定される自己と、俳人としての自己の断絶を積極的に利用し、権威を獲得してゆく俳人が増加すること

である。

 

この記事ではそのような問題を体現している俳人のことを(新たなる、しかしミニマムでやっかいな夏井いつきチルドレンとして、)「ネオ・ナツ」と呼び、今後何回かに分けて、若手俳人のなかでも最も悪質に「断絶」を利用している、【狡猾な政治家】北大路翼・【天の川島宇宙の天皇】佐藤文香・【俳句宗教家】中内亮玄らネオ・ナツの実態について告発し、ウドの街もとい俳句珍空間に強酸の雨を降らせる(つもり)。

 

・北大路翼について

 

 最初に結論を言ってしまうと、この人物にあるのは、メディアで無頼派俳句作家というを演じるタレントとしてのキタオオジと、信者を組織化しメディアから得た影響力を利用して計画的に権威を積み重ねてゆく政治的俳人としてのキタオオジ、という「断絶」であり、その「断絶」を利用して〈俳句で食える〉ようになることを達成しようとする態度である。

 

 北大路翼という人物の政治性をまず指摘したいと思う。これまでこのブログで批判してきたことをあえてここで繰り返す。

活動拠点としている歌舞伎町の土地柄や、屍派に社会的弱者が多く参加することを活用し、所詮はマイルドなものでしかない「アウトロー感」をメディア向けに販売して知名度の向上を図っているビジネスマン俳人北大路は、屍派の代表者でありながら、露呈すればメディアでの仕事を失いかねない、咲良あぽろや下村猛といった屍派のメンバーによるSNSにおける脅迫や恫喝を黙認し、その問題性を黙殺している。

北大路にとって、彼らは大事な信者であり、北大路を絶対に肯定し、北大路の批判者に噛みつく番犬的存在であるから、彼らの愚行を制することは北大路には不可能なのである。そして屍派メンバーもまた、北大路という存在のおかげでメディアに露出することができ、句が取り上げられることで承認を与えられ、その見返りとして、彼らは親衛隊として北大路を徹底的に擁護し、また、北大路の批判者に対しては突撃隊の役割をはたし、北大路の一挙一動を称賛し、ネットで拡散するのである。

そのように信者を組織化し政治力を確保している北大路がいる一方で、俳句界の外側に向けて、天の川島宇宙や出版やテレビの力と、そこから得た知名度を利用し、「歌舞伎町の松尾芭蕉」[i]といういかにもテレビ的なキャッチコピーを利用するなどして、俳句作家というよりタレントとして執拗にアピールを繰り返している北大路が同時に存在する。

タレント活動を積極的に行う北大路のねらいは明確である。それは今月14日に公開された東洋経済のインタビュー[ii]における発言〈子どもの頃から俳句をやってて、俳句で食えるようになりたいってずっと考えてます。俳句だけで食えてる人はほとんどいないから。〉に現れている。北大路のねらいとはこれである。

しかし、〈俳句で食えるようになりたい〉などという、バカげた大学生ユーチューバーのような北大路の願望に対して、わたしは氷水をぶっかけたいとしか思わない。それは、北大路のそのような願望それ自体が虚偽であるとみなすからである。


北大路の本当の願望は、〈俳句で食えるようになりたい〉ということではなく、夏井いつきのように、俳句タレントとして、俳句作家としての実力の有無と関係なく、食えるようになりたいということ(インターネットで「北大路翼」と検索してみてほしい。積極的に自己のキャラクターを前面に出すタレントの姿がそこにある。)、また、夏井いつきのように知名度に支えられた絶対的な地位を獲得したいということ、ではないのだろうか。

その願望というよりどろどろとした欲望を北大路は隠すように、普段から低俗なキャラクターを演じているくせに「金が欲しい。金のために俳句をやっている。全部金のためなのだ。だからメディアに露出せんといかんのだ」と素直に言うことはない。そのように言うかわりに、〈俳句で食えるようになりたい〉などと、いかにも俳句一本で生きていきたいというような真摯な作家としての姿勢を打ち出す(そこで、北大路の配下の突撃隊どもは、北大路のそのような姿勢と、普段のキャラクターとのギャップにくらくらしてしまうわけだ)。だが、メディアの力を利用してタレントとしてキャラクターを売り、稼ぐことは怠らないのである。


本当に北大路に俳句で食っていけるような才能があれば、これほどまでにメディアに露出してキャラクターをアピールする必要はない。結局、メディアの力と天の川島宇宙のバカ俳人どもの後方支援がなければ自身の俳句に限界があることを見抜かれてしまい、捨てられるということをご本人も十分承知なのである。


自己の愚劣さとエゴイズムを「歌舞伎町の松尾芭蕉」というコスプレとキタオオジ突撃隊の組織化によって覆い隠し、その私生活とは裏腹に、自己を完全に清潔な作家として保とうとする北大路のすがた。私はそこに、無頼派を演じつつ、政治的でもある彼の卑劣さを発見してしまう。


自己の人生をかけた表現ではなく、メディアを利用してキャラクターを売ること、そのために一般ウケのするいかにも作り上げられた安易で俗っぽい俳句を詠むことに腐心する(そしてさらに、俳句界では政治性を発揮し、それらの句を批判させない)北大路を、わたしはまったく応援する気になれない。そのような北大路の行動には、信者獲得、権威獲得の執念と、それによってメシを喰っていこうとするいやらしさと甘えしか感じられず、俳人として自己を高めてゆくという方向からかけ離れているからである。(メディアの側もまた、視聴率や閲覧数のために、北大路翼のテレビ映えのするキャラや、一般的な俳句のイメージとは違う北大路翼とその信者の俳句を利用してきたということも見落としてはならない。また、北大路翼の句のインパクトにやられ、ともすればポピュリズムに堕してしまいかねない、北大路という作家とその作品の性質を見抜けず、北大路の句集『天使の涎』を受賞させ、権威をあたえてしまった2016年の田中裕明俳句賞の選考委員の愚昧さにも大きな問題がある。北大路をここで批判したような行為に走らせた一因として、あの賞で本来獲得すべきではない権威を獲得してしまったことも挙げられよう。このような、俳句賞による権威獲得によってどこまでも変な方向に進んでゆく現象は、中内亮玄にもみられることである。)

 

ちなみに、今年の3月、北大路は新刊を出版する。「生き抜くための俳句塾」である。

ネオ・ナツは夏井いつきを呼ぶ、もとい、類は友を呼ぶとはこのことであろう。この本の帯には〈夏井いつき先生驚愕!!〉という文句とともに、夏井いつきの写真がでかでかと掲げられており、わたしは一瞬、夏井の著作であると勘違いしそうになった。しかしそれこそが狙いであり、ようはこの本の主な読者として、「プレバト」を熱心に見ているような連中(つまりそれは、創作者としての俳人ではなくキャラクターとしての俳人を消費することに慣れた連中である)を想定しているということのあらわれである。

(装画を「魁!!男塾」の宮下あきらという漫画家が担当していること、また、この本が左右社から出版されることもなかなか面白い事なのだが、これは佐藤文香のところで言及する。)

 

また、左右社のサイトにはこのような言葉が載っている。

〈捨てるなよ、汚ねえ感情を。

本当の詩は、世の中が捨てた中にある。ーー「はじめに」より〉

 

失笑してしまう。徹底的に世の中に執着する俳人が、キャラクターの消費者に向けて語る〈本当の詩〉などに、どれほどの価値があるのだろうか。

 

(ちなみに、この本の詳細が発表されると同時に、先に述べた東洋経済のインタビュー記事が発表になり、17日にはNHKのテレビ番組、「俳句王国がゆく」に北大路が出演する。いやはや、見事に計画されたメディア展開である。)

 

 北大路のような愚劣さとエゴイズム、それはわたしにもある。あるから、このようなブログで駄句と駄文をひたすらを垂れ流しているのだ。しかしわたしは北大路のように、それを「視聴者」向けにアレンジしてごまかしたり、自分の親衛隊を組織づくったりして隠蔽するような、卑怯をおかさない。自己の愚劣さとエゴイズムに徹底的に向き合い、それを晒し、テレビタレントどころではない、日本文学史上で最も醜い俳人として生き抜いてやる。

(ここまで書いておいて、驚かれるかもしれないが、わたしには北大路に対する私怨はない。印象だけなら、むしろ愉快さすら感じないではないし、俳句珍空間のマヌケな珍老人どもや人参屋の鴇田とならんでマスターベーションに耽る珍若手に比べればまだ好意を持って眺めることのできる俳人である。北大路がいくら俳句を凌辱しようとわたしはいっこうにかまわない。わたしはただ、北大路の言動には真実がないことに激しい怒りと憎しみを覚えるのである。自己の愚劣さを利用してメディア向けに見事なペルソナをつくりあげ、一方で、自己の真の欲望はひた隠しにして、無傷のまま利益を獲得しようとする都合のよさ、その器用さ、世渡りの巧妙さ。それらは、現代俳句の「暗い谷間」を乗り越えるために戦わなければならないこれからの時代を担う俳人の、あるべき姿ではない。)

 

 



 ところで、だ。

 俳句宇宙を支える世界樹(ユグドラシル)はもうすでに燃え始めている。

 あなたはどうするのか、

 だれを批判するのか、

 批判せずに見ているのか、

 だれかの批判を結局は単なる嫉妬やルサンチマン的言論であるとし、ダイソンのサイクロン式小型掃除機で合理的に吸いとるだけなのか。

 それを俳句関係者に問いたい。特に、若手俳人(こう呼ばれる連中の、少なくとも半分以上は俳句珍空間における珍権威の奴隷にすぎない。)に対してより、今、ニヒリズムに陥りかけつつ、それでも俳句を書こうとする全年代の俳人に対して。

 

 

夏井いつきは「俳句の種を播きたい」という[iii]。私はそれを否定しようとは思わない。


しかし、一つだけ、わたしは夏井に問いたい。


「それではいったいだれが、俳句界という腐りきった大地を耕し、種を播くための土を造るのかね?」

 




[i] https://tokyojapan3939.com/kitaoojitsubasa-yofukashi-6672

[ii] 40歳、歌舞伎町で俳句を生業にする男の稼ぎ方」https://toyokeizai.net/articles/-/264342?page=6

[iii] 「俳句の種、バズーカ砲でボーン プレバト人気の夏井さん」https://www.asahi.com/articles/ASLDX3PGYLDXPFIB005.html


  • Comment:0